2008/12/22

映画DVD

ゴダール。『アルファヴィル』
1965年の作品で、20年未来の1985年を描いた作品。
ゴダールは確かに凄い。何が凄いのだというのは謎だ。

『トランスポーター2』
2は面白くないというのは、3が出ていないことから自明だった? ※
まあ、普通には面白い、か。
最後まで車で通したら良かったかも、と思うが。


※と書いたら、『トランスポーター3』が来年公開されるらしい。よく調べもせず書いてはいけない。まあ、このブログはフクションかもしれないので、構わないが。
リュック・ベッソン。TAXiのシリーズを観ようかと考え中。

2008/12/21

iPodと中立進化

iPodについてくるイヤフォン。こういうものは例外なくしっくりこない気がする。(気のせいを含む)
まあたぶん、本来はオーダーメイドするべきものなのだろう。耳の形は様々なのである。
この様々な加減は、中立進化の所為だろうかと考える。中立進化というのは、日本人が提唱したのである。木村資生がその人。木村とダーウィンで進化論が成り立っていると言っても良い。
中立進化というのは、どうでも良い部分(生存競争に関係しない)の突然変位は運がよければ残っていくというもの。
耳の形はそれなのだろうか? と思ったという訳である。

2008/12/19

nano

なのなのー

すぐ飽きるようでは駄目である。
ま、、それでも良いのだが。
ステレオのイヤホーンはダサいと思うのだが、何かよい方法はないだろうか。

2008/12/17

テンプレート

テンプレートを変更。
純正で用意されているものは3カラムのものがないので、フリーで公開されているものをダウンロードして使っている。前のもそうなのだが、この手のものは画像などが直リンクになっているので、公開元が閉鎖されたりすると、画像が消えてしまったりする。

一番簡単な方法は、純正のテンプレートを使うことだと思われる。
記事さえ読みやすければ、サイドバーの部分などどうせ誰も見ないのであるから関係ないのだ。

おすすめは、おすすめ。すくなくとも、朝見のブログよりは読める内容だと思われる。

2008/12/15

邦題

最近観た映画、というかDVD。
『ナイト・オン・ザ・プラネット』原題がNIGHT ON EARTHである。まあ、そういうものか。
ウィノナ・ライダーが出ていることは、今、知った。
ウィノナ・ライダーって名前だけは聞いていたのできっと有名なのだろう。
で、どの役がウィノナなの?
フランスの話が良かった。

2008/12/09

素朴な本当

人間は何のために生きるか、などという問いに対して答えるべきことはきまっている。そのように問うこと自体間違っていると答えればよい。そのように問えば必ず、人間存在以外の何か或るものを人間存在の目的として探すことになってしまう。しかし、人間が何かのために生きる、などということがあってはならない。人間の生は「何か或るもの」などをはるかに超えた巨大な質のものである

──田川建三『宗教とは何か(上)宗教批判をめぐる(洋泉社)』

2008/12/08

知らないだろう

昔、さだまさし、よく聴いていた。というか、僕の周りでは何故かみんな聴いていた。

懐かしい。

http://jp.youtube.com/watch?v=jUI6l5xgdt0

2008/12/06

レゾン

hab.laを付けてみた。サイトからチャットできるという優れもの。HTMLにJavascriptを2行書き込むだけ。まあ、Hab,laのアカウントは必要なのだが。

hab.laで検索すると、うちのはてなに書いた記事がトップに出てくる。Hatenaのタイトルというのは、上位に来るのだ。

ホームページというのが、マイナーなのだろう、HTML書ける人、あるいはビルダーとか使う人も含めて減っているんじゃないだろうか、
ちなみに、Javascriptが貼れれば、ブログでもhab.laは動くので、念のため。

クリスマスソング

シャンソンドノエル? 
さだの「遙かなるクリスマス」を挙げておこう。
http://jp.youtube.com/watch?v=p0p_YpW0qT8

いっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる。


愛を歌っているとか、それが愛だという考えがあることには賛成する。でも、愛が本当にそれか、はあるいは違うのではないかと思う。
究極には、何かができないから不幸だというわけではないと思う。不幸というとその定義によるかもしれないので誤解されるかもしれない、駄目とか、悪いと言い換えるべきか。

それで善いか否か、君が決めるのである。

2008/12/05

ぴかぴかひかる

街は電飾でいっぱい。ぴかぴか光っているものはきれいである、と思うことには異議はないが、余計な電気は使わない方が温暖化ガス削減には良い効果があるのではないか。と歩きながら思う。
ルミなんたらのニュースも同じく。何を思い出すのか知らんけれど、その地震は活断層による直下型なので、範囲は小さかった。プレート型の東南海地震が起きたら、この何倍では済まない。そういうことを考えて対策しておいた方が良いんではないだろうか。と思う。ま、ぴかぴかしているのが綺麗ならよいのかもしれない。僕はどうでもいい。
さらに、車が売れないとか言うニュース。正社員じゃない人が職を失う。それは困ったことだが、車が減れば、温暖化防止に役立つんじゃないか。工場の休みが増えれば、それも効果があるかもしれない。
CO2が本当に人間の活動によるのかどうか、というような反論があるような。温暖化したからCO2が増えたのだ、というわけ。
まあ科学的には、対照実験ができないことなのだから何とも言えないところ。CO2は増えているし、気温も上がっている。産業革命以降人間の活動でCO2を排出しているというのも事実。でも、まあ、きっとそういうことなのだろう。
温暖化したって良いではないか。
──たしかにそう。温暖化して困るのは人間である。温暖化に適応した生物はたぶんきっと生き残るのである。
 それに、電飾をしてもしなくても、排出量は大して変わらない。ルミなんとかを数日間してもしなくても大して変わらない。
 そう思わせる、街の灯。

そして、そんなことを思いながら、「ティファニーで朝食を」を観る。
ティファニーは融通が利くのである。

2008/12/01

頽廃的意味不明

映画は『バンカー・パレス・ホテル』(仏1989年)
本当に意味不明。冷戦時代の東欧の雰囲気の保存版というのは副次的な結果かしら。
近未来SFと題されているけれど、(題されているのか)そんな感じでもない。

(管理者より)Hab.laを試験的に付けています。オンラインであれば、メッセージが送れます。返事が返ってくるかもしれません。また、予告無く外すかもしれませんが、よろしく。

2008/11/29

BUENA VISTA SOCIAL CLUB

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
のアルバムを買ってしまった。iTunes Storeの罠×映画の罠 である。
カーネギーホールでのライブ版。良い。これは良い。

一部の人びとが、カリブ海にこだわる(注目する)のも分かる気がする。

同名の映画もそうだが、キューバには立体感がある。3Dだ。
僕たち日本には、比べるとなんだか立体感がないように感じられる。
平面的でないものを、だから探し求めている渇きがあるのだ。

2008/11/26

子ども向け

今週の映画『八十日間世界一周』
誕生日のクーポンでレンタルが半額なのだった。
子ども向けの棚にあったけれど、場違いな気もする。ならばどこに置くのかというと、古典だろうか……。
この映画の冒頭に場面が出てくる、ジュールベルヌの月世界旅行の映画、見たいな──と思っていたら、ネットで見ることができるようである。Wikipediaで見つけた。
『月世界旅行』(日本語字幕つきパブリックドメイン動画)

2008/11/16

l'anniversaire

ヴィム・ヴェンダース監督の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年)
今週の映画。主役は老人?
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(YOU TUBE)

若いというのは何を指しているのか。
我々は、どこを射程に据えて生きていくのか、と思うに、あまりにも足許を見すぎているのではないか。

ストーリィのない映画なのだが、ストーリィは別の処にある。
そんなことより、音楽と映像が心地よい。

ヴィム・ヴェンダースのリスボン物語も音楽と映像が心地よかった。BGVにしておいても良いと思う。

2008/11/14

ノルマンディの秋祭り

ルモンドの見出しをいつも見ていないけれど、たまたまLe Poème harmoniqueというのが目についたのでざっくり見てみた。

ノルマンディの秋祭りの第三エディションが10月23日、Le Poème harmoniqueの10周年アニバーサリーで開かれました。それ(Le Poème harmonique)はすなわち、Vincent Dumestreによって1998年に設立されたバロック音楽団です。




Automne Normandie
Le Poème harmonique


ポエムアルモニック。なかなか良さそう。CDあるかしら。

2008/11/12

かもね

鴨川は無料だけれど、もう寒い気もする。
赤の白との写真を撮っているといっても、コーラの写真を撮っているわけではない。いや、コーラは茶色だが自販機は赤白なので念のため。

対角化すれば、やはり変わらないベクトルの並びは、少し寂しくて、大きなシャリテが存在している。

2008/11/10

Mais ne nous délivrez pas du mal

今週の映画。『小さな悪の華』
どうしてこういう邦題なのか。まあ、ボードレールの『悪の華』──Les Fleurs du malから取ったのか。

原題は禁止の命令形。「悪より我々を解き放つな」このmaisは英語のbutに近い接続詞なのだけれど、強調のためなのか何なのか。

制作年は1970年。なんとも挑戦的な映画になってしまっている。制作国のフランスで禁止されてしまったらしいが、反カトリック的なところが問題になったということなのだろう、と。先入見なしで観れば、素朴な映画なのかもしれない。


終わり付近のシーン。「見ているが見ない」というところか。なかなかよく作られていると思う。いや、わざとらしい? 観ている人びとを映画で観ている我々も一瞬納得してしまう怖さがある。(マタイ書13章──といいうかイザヤ書か)

神を奉ってしまって(雲の上に)、あんたらは考えなくても良いのよ、というやりかたがカトリック、と言ってしまうと、それによって悪いみたいだが、広まっているのも事実なわけで、人間の要求に一致したとも言える。
考えたくないし、自由でありたくない、そうでないほうが楽であるという、パラドックス。

考えるか考えないか、決めるのは誰なのだろうか。










ところで、この作品、1970年(日本は72年)公開で、今年初めにDVDが発売された。それまでビデオやLDなどにはなっていない。72年当時のことは当たり前だけれどネットでは分からないのである。ワンピースの短いスカートとか、たぶん、普通に流行していた頃なんだろう。しかし、そういうことは調べようがないのがネットなのだった。まあ、あと四十年後に、今のブログが検索されるかどうかもわからないのであるけれど。

2008/11/07

うーぶりー

Wikipediaで「何か」を検索しようと思っていたのだが、何かが思い出せない。
「Wikipediaで何かを検索しようとしていた」のが夢だったような気もしてきた。
どうでもいいことだとは思うが、気持ち悪い。

2008/11/06

二万マイル

映画の記事を書いていなかった。
先週の映画。
『海底二万マイル』
ジュール・ベルヌ。なかなか、なかなか。
原作とはちょっと変わっているようなので、原作を読みたい。
と思った。
と、ちょうど家に原作があるが、何故か仏語版だった。でもよく見ると、アブレジェ版だ。


ちなみに、マイルじゃなくてリューなのだった(単位が)

2008/10/29

仮初の恋

かりそめのこいというのは、なかなか良い響きであるような気がする。

もっとも、かりそめでないこいというのは無いような気もする。
あるいは、恋はかりそめでなければならないのである。

2008/10/20

古い昔話

昔のことである。

恋をする前に失恋をした、という経験をした。
本当は、失恋してから、過去にさかのぼって恋をしていたことに修正した、ということか。まあ、これはよくあることかもしれない。
この後、もう一度同じこと同じ相手にをくり返したというオチがある。
まあ、そういうこともある。
きっと、よくあることなのである。

2008/10/18

Il y a eu le ciel clair.

2008/10/13

京都で暮らしましょう

京都で暮らしましょう。お金はないけどね。

小説の書き出しとしてはおもしろそうである。どうだろうか。

2008/10/06

間違い

人間は間違うものである。
ひらきなおれば良いというわけではなくて、まあ、認めるということ。





ありもしないところに、幸せを探している。言っているのは、誰か。ヒルティだったか。
あたりまえの部分がみえなくなっているのではないか。

私は関係の中にこそ存在している。

間違ってはいけない。
自分で、これでよいと思った道を生きればよいのである。

2008/10/01

独り言

必要十分以上の脳を持ってしまった人間の不幸。
われわれは何者で、どこから来て、どこへ行くのか。

寂しいというのは間違いではない。
間違いではないが、それよりも、独りが怖い。


独りでないと生きられない、独りでいたい。
独りでも生きられる、独りである。
独りでは生きられない、独りではいたくない。

大きすぎる脳で、未来という概念を知ってしまったわれわれは何を思うのか。
そんなようなことが、小松左京氏の本に出てきた。

過去のある時点よりは、苦しくないのではないか、比較可能なのであれば、事実そうなのかもしれない。

しかし、悲壮感を地でいっている気がするが、情けないというか、莫迦ではないか。
まあ、仮に、というか事実そうだとしても、こういうものは進歩しないのである。

恋しい不定冠詞


──この世には不思議なことなど何もないのだよ。

今年の十月は少し寒く。比較的さびしい。
──いつまでも一緒には居られません。と誰かが書いていた。

普通のことである。不思議なことなどやっぱり何もない。
それが切ない理由だろうか。
かなうならば、不定冠詞のあなたと一緒にいたい。

2008/09/26

OMNIS AMANS AMENS

OMNIA VINCIT AMOR
ET NOS CEDAMUS AMORI


1行目。愛はすべてに勝つと訳す場合もあるが、今回は、「恋は万物を打ち負かす」と訳す。「だから我々も恋には譲るべきだ」ウェルギリウス『牧歌』の一節である。例によって逸見喜一郎『ラテン語のはなし』より引用。ちなみに、2行目の動詞は接続法だそうな。



OMNIS AMANS AMENS

こちらのほうが、語呂がよい。まあ、これでよいのだ。

2008/09/24

コーダ

コーダの記号はフォントにないのだろうか、少し淋しい。
コーダの記号というのは本当はコーダの記号じゃないことを知った。

縮退

基底状態が底だと思ったら、さらに縮退した。
みたいな、量子力学的な比喩を使うとどうだろうか。
──などと思っているが、縮退というのをあんまり理解していない(というか、理解していない)ので、使ったらいけない気がしている。

2008/09/23

射程

見苦しいので消しても良かったが、まあ、そのまま残しておくことに。新しい記事を追加すれば、後ろに行くであろうという魂胆。


根本的に間違っているか、錯覚しているのは、私は何も持っていないというところ。

ひとつのことしか見えていないというのはだめである。
そっちが駄目なら、ちがうところに注力すればよいのである。

もういいよ

もういいよと言えないの言いたいの言えないの。

あまり良くないと思う。
自己評価すれば、去年よりは良いのかもしれないが、総合評価みたいなもので幸せが計れるわけではないのである。
なんて我が儘な。

正直に言えば、良くないわな、と思う。困った。
今さらというか、今に始まったことではないけれど。
まだ? まだ、か。

最も困ったことは、こんな意味不明のことをここに書いていることである。

読んでいただいている人に対しては、ごめんなさいとしか言えない。
良くない。

2008/09/22

存在自体が課題

静かである。
静かにするのが善いのである。




人間の存在は関係にあるが、それは常に私が選んでいるものではないのである。

とてもありがたいことである。

見方が悪い

自己言及というか、パラドックスというか、そういう問題が発生する。
床屋の髭は誰が剃るのか。

ゲーデルの不完全性定理を勉強するべきだ。
──というか、ゲーデルの名前が思い出せずに検索したという……ていたらくというか、もうだめだ。。

主体的に覚える

覚えるというのには覚えようとしなければならない。

どうでも良いことだが、覚えられないことがあった。フランス語で出てくる場合であるが、
éの上の´をアクサンテギュ(accent aigu)と言い。
àの上の`はアクサングラーヴ(accent grave)と言うのだが、これが覚えられない。こんな風に書くと誤解されるかもしれないが、eとかaとかはどうでもよくて、記号が右下がりか右上がりかということである。

まあ、記号の名前などは覚えていなくても支障はない。日本語でも「ば」や「ぱ」についている記号が半濁点とか濁点と呼ぶことを知らなくても会話や作文は問題なくできる。

aiguというのは鋭い、graveは重いという意味だが、音については、それぞれ、高い、低いという意味にもなる。
このように書けば簡単に思えるが、aiguとgraveのどっちがどっちかはすぐ忘れそうである。右下がりか右上がりか右が基準ということも忘れるかもしれない。
まあ、どちらにしても大したことではない。仏語で言うなら
Ce n'est pas grave.
である。

2008/09/21

007

『007は二度死ぬ』
原題はYou Only Live Twice
人は2回しか生きない、というわけである。Youはあなたでなく、一般的な人を現す主語で、仏語で言うOnか。──そういうことはどうでも良い。

この、1960年代後半というのは、アポロの時代で、ロケットの時代だったのだな、と思う。冷戦の時代でもあったわけだが、それなりに希望もあったのであろう。
まあ、そんなことを考えてもおもしろくないのである。
素直に見るべきだ。
なにしろ、素直に見ると、面白い。荒唐無稽な内容が、好きである。ギャグ(ギャグでないかもしれない)が、私のお好みである。

2008/09/20

婉曲

好きです、とか、愛しています、一緒にいたいです、などの通常の告白やラブレターに使われそうな文言を使わないで、それを相手に伝える文章を考えよ(20点)

2008/09/18

お嫁さんが欲しい

表題の内容について論述せよ(10点)

2008/09/16

枠の方を変えよ

視点をどこに置くか。
基準をどこに置くか。
合格点のようなものをどこに置くかと言っても良い。
自己採点である。

採点しなくても良いのである。

なぜ、何を望むのだろう。何も変わらないのに。
欲しいと思うのは何故?

2008/09/15

風車に戦いを

それは、ラマンチャの人だけれど。

いつの間にか歳をとってしまう。
こういうすちゃらかで、何年も過ぎていくんだろうか。

人のことを思いやる気持ちとかがあれば、変わっていたかもしれないというか、まあ、報いというか、因果応報というか、あたりまえだのくらっかーというか、自業自得というか、十分条件から必要条件である。

まあ、言うほど余裕はないけれど。しょうがないわ。と思う。
そういう生き方だから、あちもこっちもうまく行くというのも出来すぎだし、そうは問屋が卸さないのだ。

悩み事

悩み事を聞くのが友達ではない。──いや、別に聞いてもいいのだけれど。
悩みを聞いてもらうのが友達ではないと言うべきか。

悩みとは何か。
相談というのとは少し異なるのかもしれない。

悩みがあるとしても、友達というものは、たぶん、悩み事を言うよりも違うことを言う、あるいはした方が、結果的に良いように思うし、そのためにあると言っても良いのかもしれない。
 ──ちょっとこの記事は、まとまりがない。


つまり、自分で決めるのであるし、決めるしかないのである。

2008/09/14

さよなら7000


名古屋鉄道の7000系電車、通称パノラマカーが廃車されるそうで、記念乗車会があったそうな。

たしかに、子どもが乗りたいと思う電車だった。ネオン管式のデジタルスピードメータが先頭車両に付いているのが見たくて仕方がなかった。一宮付近の直線区間で100KM/Hを出すのが珍しかった。
まあでも、十分乗ったと思うし、お別れ乗車会に乗るまでもない。50年くらい走ったのだな。

今。今思うと、3400系とか800系とかの方が貴重だったのだな、と思う。
今の電車よりも、デザイン(意匠)としては面白いと思うけれど、昭和の雰囲気というか、単なるノスタルジーだろうか。


(検索していたら、きれいな写真を紹介していらっしゃるサイトが見つかったのでリンクしておきます)
Streamliner の時代 ‐2‐

2008/09/13

昔の話

アコースティックギターは電気がなくても遊べる。

これが何のコードかと言えばFである。コードでギターを入門した人の多くはここでつまづく。それはFじゃないとおっしゃる?

そう。Fのコードはこの方がセオリーであるが、1フレットの1弦と6弦を押さえなければいけないので、セーハをする必要がある。人差し指で1弦と6弦の両方の弦を押さえているわけで、一本の指で複数の弦を押さえるのをセーハと言う(んだと思う)。
先の写真はインチキで親指で6弦の1フレットを押さえている。
こういうインチキを覚えると、Fだけはできても、真面目にセーハの練習をしなくなり、結局バレーコードが使えないという道をたどる。
Bのコードとか、人差し指に加えて、薬指でもセーハしなくてはいけないし、インチキもできない。
カポタストで移調するという方法もあるけれど……。
結局F型のバレーコードもできないし、B型のバレーコードもできないだめだめなのだったのである。
まあ、昔の話。
すっと弾いていないので、指先が柔らかくなっている。

ちなみにこれがCのコード。普通はこれから覚えるが、私はギターをやっていた頃はネクラだったのでEm7(Eマイナーセブンス)から覚えたのだった。──指一本だけで簡単だし。

2008/09/12

かわいそう

悲愴というよりは、しょうもないやつだと言って欲しい。
自分勝手かもしれない。というか、かもでなくてそれしかないである。

タイトルの通りAMENS(おばか)な話題しかないブログである。
読者のあなたが自分より愚かな奴がいると思って優越感に浸っていただければ、望外の幸せである。

というわけで、 まだまだやりたいことは山ほどあるのである。ブログやサイトをどうするかというのも考え中。まあ、ずっと言っているから、だらだら行くんだろうというところ。
だらだらだ。
下から読んでもだらだらだ。

2008/09/11

意味はある

意味があったら困る。
──それはすでに存在理由から破たんしている。
ブログとしては。
それならば、意味がないことにしたい。
意味がないことをしたい。
いや、それはもう既にしている

2008/09/10

微分係数

袋小路というのは閉塞感がありすぎて不適切。
微分係数が0というのは、ある意味不安定。

進歩がないことは評価されるべきか。
消すのなら簡単。ゼロを掛けるだけ。
そのスイッチを押すだけでよい。

2008/09/09

タイム・マシン

1960年 映画『タイム・マシン』
H.G.ウェルズ原作。またまた古い方。2002年にも映画化されている。

何を置いても、タイムマシンが美しい。まさに、タイムマシンの映画である。


この話では、80万年後の人類が出てくる。衝撃的な未来なのだけれど、それでも人類が残っていると予測したわけである。
しかしまあ、ウェルズの予測──というか、フィクションであるけれど──方向的には当たっているのかもしれない。アトムの漫画に出てくるような未来は無いだろう。

しかし、なんでまた80万年なんていう中途半端な未来にしたのだろうか。いや、進化論的に考えれば、案外考えられた数字かもしれない。

2008/09/08

十誡

『十誡』を観たけれど、書いてなかった。
1932年、セシル・B・デミルの監督作品。最初の十誡の作品。サイレントの作品。サイレントの映画というのは初めて見たかもしれない。

1956年のリメイク版も観たけれど、モーセが石版を持って山から下りてくるところが、一番力が込められているように思う。まあ、旧約聖書をそのまま要約するなら、当たり前と言えば当たり前か。

で。
この映画、DVDに淀川氏の解説が入っているです触れているように途中から現代劇に変わってしまう。十戒関係ないじゃん。のであるが、そうでもない。旧約聖書にしても、新約でも、なにをなすべきかというところに、帰着する。
ジレンマであるし、誘惑でもある。
ので、何を見て良しとするるのかである。

2008/09/07

誰も言わない

生きているの頑張っているの偉いの。
良い子良い子。

本当はそう言って抱いて欲しい。
もちろん、私が、である。

奇跡的だ。

2008/09/06

20キロバイトの小説

好きならば、20キロバイトくらい書けると威張ってみたけれど、そんなに書くことがない。そんなに書くことがないどころか、まったく書くことがないような気もする。

好きというのは、何か。それは、関係可能、あるいは、関係希望、のことだ。
恋の詞なんて、だから、いくらでも書ける。どんなに好きかを書けばよいのだから。

どこが好きか、何が好きかは、ちょっと難しい。書いてしまうと、滑稽になってしまう。小指の爪の形が好きというのは意味不明であるし、耳が好きというのもちょっとマイナである。鎖骨あたりは普通かもしれないが、背中のRが好きというのはあまり聞かない。それにしても、容姿についてしか出てこないのはすでに貧困である。
やさしい気持ちは、好きかもしれない。好きというのは、正しくないかもしれない。
動いているところが、好きだ。どう動いているかを書く文才が無いのは、もちろん私の所為である。
あとは、何があるだろうか。
もしかしたら、私のことが嫌いなところが、一番好きなのかもしれない。
それにしたって、好きなんて、些末なことである。

2008/09/04

だめ

何事も、駄目だというのは簡単である。

だめだー

ほら、簡単だ。
駄目という前に、努力すべきである。努力とは苦労ということではない。やるだけはやれ、ということである。
やれることはまだ残っているのではないか。

2008/09/03

今週のレンタル

  • タイムマシン(1960年)
  • ティファニーで朝食を

Baはアルカリ土類

検診でバリウムを胃の中に入れてX線を撮る。X線写真も今どきはデジタルだ。それにしても写されている方は、まったく楽しくない。というか、見ている方が絶対に楽しい。
さらに、このバリウムというのは金属なので、重い。比重が大きいのである。
どう考えても出てくるまで消化器系に負荷をかけているだけのような気がする。
──蛇足だが、出てきてからも、重いので、流れにくいのである。


思うのであるが、
べつに長生きしたくもない。死ぬまでできるだけ健康でいたいというのは究極の贅沢であるわけで、容易にかなわない願いである。

きっと、それが真実だが、さて。

ペソアの異名「アルヴァロ・デ・カンポス」の詩より
必要とされている人間などいはしない だれもお前など必要としていない……

お前がいなくなっても すべてはお前なしで動いてゆくだろう


必要とされているから生きているわけではない。と、思う。

お前はお前にとっては重要だ お前が感じるのはお前だから

お前はお前にとってはすべてだ お前にとって宇宙だから

では、「私」とは何か? である。
お前がお前にとって重要なのはお前にとって重要なものがなにもないからだ お前のほかに

2008/08/31

今週の映画

『第三の男』
『笑う大天使(ミカエル)』

マルタの鷹は、レンタルにないらしい……

2008/08/30

大切な人

「大切な人」について考える。
──この記事書きかけ

2008/08/29

備忘録

さて。次は何を見るか考え中。
マルタの鷹、か。
第三の男というのはどうか。
レンタルにあるかどうかが問題。500円で売っているものを買うほうが安いだろうか。あれば、であるが。

2008/08/28

分かりやすい

このブログはAMANSでAMENSな人のためにお送りしている。

その人のやり方がある。
「どうしても好きだから、一緒にいて欲しいの」
実は論理的には飛躍しているが、間違いとも言い切れない。

おそらく、一緒にいて欲しい理由は、好きだからではない。
それに、
ひょっとしたら、好きではないかもしれない。
もっとも、それは些末なことである。

2008/08/25

HB?

『カサブランカ』
CASABLANCA。白い家。
ハンフリー・ボガート。ハードボイルドである。たぶん。
良い。とても良い。名作である。



ジャズを聴きながら、バーボンでも横に置いて、居眠りをしたいのである。

SF古典

『宇宙戦争』(1952年)
H.G.ウエルズのSF。火星人が攻めてくる。
2005年にスピルバーグが作っているが、今回見たのはそれでなくて、昔の映画である。

最初から映画を作ろうとするなら、こういうシナリオにはならないであろう。さすがはウエルズである。
結末には突っ込みをしたくなるが、そう思ってしまうのは、我々が毒されているからではないであろうか。
さて、何に毒されている?

2008/08/23

今週のDVD


  • 宇宙戦争(1952年)

  • カサブランカ

  • 十誡(1942年)


借りてきた。
十誡は古い方。モノクロでサイレント。カサブランカは定番らしい。宇宙戦争も古いスピルバーグじゃない方。

2008/08/22

あまり知られていない

前はサイトに会員番号を書いていた気もするが、実は森博嗣のファンクラブの会員だったりする。
そのクラブが設立10周年で何かするらしい。
朝見は設立時からの会員なのであるから、その年数と同じだけ会員歴なわけであるが、最近は別に何も活動していないし、今まで会合に出たことや、森博嗣の実物を見たこともない。
まあ、きっと普通の会員なのである。

ちなみに、会員の登録されている名前は昔のハンドルのAK。会員番号は1XXである。

雑音

今週は忙しくでブログを書いていない。
どのくらい忙しいかと言えば、今週は忙しくてブログを書いていないと書くくらいである。

まあ、ブログの方に視点を移せば、いつもと同じくらいということである。差は誤差の範囲だ。

先週のSF映画は『ソラリス』を借りてきたのだった。
今週は何にしようかと考えているが、何か良い映画はないだろうか。SFである必要はないのだが、ホラーはお好みじゃない。
ウエルズの作品を映画化した『宇宙戦争』かな、とか考え中。これは古いのと新しいのがあるはずなのだが、やはり古い方か。
ウエルズと言えば、タイムマシンも映画化されている。

映画はあまり見ない人なのだが、ちなみに朝見が一番好きな映画は、『ローマの休日』のようである。

2008/08/20

映画ドンキホーテ

デ・ラマンチャです。
岩波文庫で読みかけだったのですが、どこまで読んでいたのか全く覚えていない。さらに手元に本がない。
続編は買っていなかったと思うけれど、いつの間にか岩波は訳者が変わって新訳版が出ている。新しいの買おうかとも思うが、まあ……、優先順位を下げておこう。

そういえば、作者セルバンテスの短篇集を買ったのを思いだした。
どうしてこんなに未読の本に囲まれているんだろうか。


──と。映画(DVD)の話を全然書いていなかったのだが、これと言って書くこともない。あえて言うなら、普通に映画化している。SFX無い時代で、モノクロだ。
まあ、ドンキホーテがちょっと老けている気もするけれど、あんなものだろうか。
喜劇と悲劇を揺れ動く作品である。

2008/08/19

拗ねてるの

嫌いではいけないか。
嫌いとは何か。
嫌いでは一緒にいられないか。
嫌いと好きはどう違うか。

一緒にいたくないのか。
一緒にいてあなたが得るものはないか。

誰のために何を欲すか
誰のために誰を愛すか

2008/08/18

破棄するか?

鷲田清一×永江朗『哲学個人授業』
朝見ブログで(も)取り上げている。それなりに面白い。
キェルケゴールは
他人の婚約者だったレギーネに惚れて、やっと口説き落として奪い取り婚約すると、こんどは理由不明で婚約破棄。レギーネは泣いてすがったという──


そういえば、キェルケゴールは『反復』という本を書いている。同書岩波文庫の解説によれば
愛しながらも結婚にふみきれぬ憂鬱質の青年詩人──さながら一篇の恋愛小説のごとく書かれている。

だそうである。
読みかけたのだが、ちょっと中断している。

このブログはもともと恋愛の話題を取り上げるつもりだったので(そうだったのか!)〔だから、タイトルに書いてある。〕、おあつらえ向きの本だ。いつになるかはわからないけれど、まあ、読んでから何か書くことにしようと思う。

2008/08/16

本当に必要なもの

母は先の戦時中は中学生だったようで、戦争によって卒業式をしていないとか言っていた。何処かの田舎のお寺に疎開し、粗末な食べ物を食べていたと言う。B29(米軍の爆撃機)が焼夷弾をばらばらと落としていたとか。爆弾が落ちてきたのは疎開先ではない。

そう言う体験をした人はいずれ死ぬわけで、それを聞いた人が喋っても説得力は半減する。

そもそも、先の大戦が、どうして始まったのか。どうして日本が参戦したのか、ということは学校で教わっていない。今の子どもは教えられるんだろうか。

しかし、どうでもよいことではないか。日本に戦争をするだけの物資はない。食料だって輸入に頼っているのだから。

送り火

2008/08/15

引き続き

寂しい夏だが、普通である。
悪くはない。というか、一人でというのは、多分良いこともある。

良いことがある方がよいのか、(その)良いことがなくても、一人じゃない方が良いのか。

そういう接続法を使うような事柄は、ま、考えるだけ無意味だ。

サンペイ

釣りキチ三平が映画化とか。

懐かしい。一平じいちゃんの葬式とか、魚神さんの月面宙返りのシーンとか目に焼き付いていますね。毛針散人(字が不明?)の石化けとか。インパクトのある稠密なマンガだ。
その後読み返すことはなかったので、今は行方不明。旧宅のどこかにあるはずなのだが。
今ならもう一回読んでもよいかも。とか思う。(でも行方不明)


平成版という新作が出ているので、そっちを買ってみるか。


思えば、藤子マンガを卒業してから読んだのが、三平と、BJとレース鳩0777だった。
レース鳩0777はマイナーだな。

2008/08/14

絵とか美術品、よりは、埴輪や縄文遺跡を見る方が好きな気もするが、大小が比較できるほどの差は実際にはないのかもしれない。

画家とか絵とかは興味がないわけではないのだけれど、とっかかりがないのである。
画家の名前で知っているのはレンブラントとノーマンロックウェルくらいである。それだって名前だけでどんな絵を描くのかよく知らない。

まあ、しかし。
レンブラントはちょっと見てみたい。と思っている。

2008/08/13

君は知っているか

ロシアの現大統領が分からない。
ちなみにプーチンではない(プーチンは大統領の職を離れ、今は首相である)

というわけで、調べてみたが、これが全然覚えられない。
ロシアっぽくないからだろう。(もちろん冗談であるが、覚えられないのは本当である)

2008/08/12

下鴨納涼


古本祭り。




糺の森でやっている。

2008/08/10

よんだくん

夏の文庫。角川と集英社の目録はあっても、新潮の目録がない。
何故?

夏の歌・思い出

夏と言えば、と言って思い出す歌は

森高千里の『SWEET CANDY』である。

当時、仕事で、車で移動することが多かったのでラジオで新曲をそれなりによく聴いていた。
まあ、ある意味衝撃的に斬新な歌詞である。
──ちなみに、Youtubeなとで探せば、聴けるような気がする。──


以来、毎年この歌詞を実践している。べつに森高氏のファンでもないのであるが。
今年の夏も終わっていく。

2008/08/09

何を読む

おもしろい文学作品が読みたいが、読んでみたいと分からないというジレンマがある。
自分の気に入る筈の作品が、入手可能であるという保証もない。
というより、できれば、あまり有名でない作家のうちに、自分に合うようなものがあって欲しい。
そういう本を探す方法はないだろうか。

2008/08/07

イザヤ書

預言者イザヤ書の一節がぐるぐるしている。とくに意味はない、と思う。
なぜかBLOGGERのインタフェースが英語になっている!! それはどうでもいい

イザヤ書のどこだろう。

8/7 7:30追記 日本語に戻った。しかし、4:00PM PDTに一時アクセス停止となりますと出ている…… PDTってどこの時間だろうか。

2008/08/05

今日の仏語表現

twitterに仏語のユーザ(メディア)をフォローして、なんとはなしに仏語が流れてくるようにしてみた。自分で言うことではないが、思ったより仏語は分からない。言語の学習というのはその学習時間に比例──というか、時間が必要なのである。つまり、近道というのはない。──というか、海馬の記憶から忘れていってしまうので、それをなんとかしなければいけない。


と、いうわけで、今日の表現。

Mais, pas tant que ça.(メ パ タン ク サ)

「しかし、それほどじゃない」

予備の趣味

クラシックの音楽(CD)を聴くという趣味もあるが、ほとんど予備である。予備の趣味というのもなんともかんともである。
しかし。趣味にならなかったのはなぜだろう。
まあ、のんびり音楽を聴く時間があってもよいかもしれない。




少し良い感じのアンプ内蔵スピーカが欲しい。

夏の小説(暑中御見舞い)

京都はいつの間にか祇園祭も終わり、八月になっています。京都の夏は暑いと言われていますが、愛知の夏よりも暑いと感じるほどではないようです。もっとも、日中はクーラの中にいることが多いので、判っていないのかもしれません。
いつの年だったか、夏に、線路で写真を撮ったことがありました。線路から公園へ移動して、そのあとさらに別の場所で何枚かの写真を撮りました。歩いて移動するのがちょっと大変でしたよね。あの時は、写真を撮ることだけを考えていました。考えていたというのは違うかもしれません。写真を撮ることだけをしていた、と言えば良いのでしょうか。そんなに一生懸命撮らなくても良かったよね。と思いだして可笑しくなるのですが、あの時の写真はもう撮れないのですから、あれで良かったのだろう──そう思います。
今年、あなたのいない京都の夏は、すこし寂しいような気もします。いえ、何が違うというわけでもないので、あるいはそれは錯覚なのでしょうか。
もうすぐ立秋ですが、まだしばらく夏の日が続きます。
今年の夏は何を撮ろうか。
背景になるものを、いつの間にか探しています。

2008/08/03

映画2001年宇宙の旅

原題は 2001:a space odyssey
制作は1967年。アポロ月着陸の2年前であるから、まあ2001年くらいに宇宙旅行もあるんじゃないかというのは、映画としては本当っぽい設定かもしれない。
今では、何年後かに宇宙旅行ができると、人は思うだろうか。

ところで、はっきり言って、よく分からない映画である。よくわからなくても、映画としては、映像の美しさなどを楽しめば、それでよいのだろう。その上で、各人が色々解釈するのであれば、それでよいわけだ。


と、まとめようとしたら、『2010年』という続編で謎が解明されている、とか。それでいいのか?

恋するもしくは愛する人のために

(  )するのであれば、あなたとである。
しかし、あなたとであれば(   )しなくてもよい。

(  )には同じ語が入る。何が入る?

2008/08/02

SF洋画

週末に観ようと思い、DVDを借りてきた。
SFの古典的な定番でいつか見ようと思っていたもの。
2001年と未知との遭遇の2作。

なんというか、レンタルでは、一般的な映画しか入手できないのが難点である。

2008/08/01

恋人の条件

微分ができる。

だろうか。あるいは、ベクトル積(外積とも言う)ができる、でもよいかもしれない。

いまさらの謎

邦題「海底二万(マイル|海里|里 )」と言われている小説の仏語版が本屋にあったので買ってみた。どうせ読まない(読めない)が。

ちなみに原題は
VINGT MILLE LIEUES SOUS LES MERS
まあ、直訳っぽいわけで。sousは英語で言うunder、les mersは定冠詞+名詞「海」の複数形。lieuesは単位、リューだそうで、メートル法に換算すれば、四キロだとか。

八万キロ?? 地球2周?
こう考えると、どういう話なのだか、とても気になる。

2008/07/31

億単位

まあ、苦しかったり、淋しかったり、恐かったりする。
67億人くらいはそうなのだ。きっと。
もっとも、そういう数値は意味をなさない。
自分においては、自分がどうか、ということに尽きるのである。他人のことはどうでもよいのであるから。

そんなことが言いたいわけでもない。
なんとなく、シンプルではない。

2008/07/30

創作したいか

そういえば、創作サイトだったのだろうか。
いくつかブログに拡散して、内容は希釈されて印象に残らないような薄っぺらなものになっている。
本ブログを開設してから、本家のブログの記事が激減している。単にこっちに移っただけであるが、内容のない物を書いていたということか。

気の利いたことを書くというのは、誰でも簡単にできるわけではない。
しかし、まず、何が書きたいのか。それを忘れている。
書きたいことがないなら、書かずともよいのである。
何をやっているのだろう。

とんぶらねえじゅ

Tombe la neige.
Tu ne viendras pas ce soir.
Tombe la neige.
Et mon coeur s’habille de noir.


ブログで紹介されていて、ネットで聞いたら、耳に付いてしまいました。

とんぶ ら ねえじゅ(降る、雪は)
ちゅ ぬ びあんどら ぱ す そわ(君は今夜は来ないだろう)
とんぶ ら ねえじゅ(降る、雪は)
え もん くー さびゆ どぅ のわ(そして、私の心は黒い(色を着る))

2008/07/28

コロンボ

コロンボを観る。DVDを借りてきた。
刑事コロンボ。コロンボは警部というか、警部補。
タイトルは『意識の下の映像』サブリミナル効果を使った殺人という、森博嗣や西澤保彦も負けてしまうほどのトリックである。
もっとも、凶器が出てこないことが本当のトリックなわけだが。
TVでおなじみのテーマ曲がDVDには入ってないのが残念。
コロンボ単独のテーマでないからか。NBCミステリー・ムービーを参照。曲名Mystery Movie Themeで検索すると、比較的容易にネット上に見つかる。

http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=188680
コピー?

2008/07/26

破たん

「たん」というのは敬称か?
あまり拡張できない話題である。
そういえばしばらくタンを食べていない。

好きなこ

きな粉である。
もう二度と好きだなんて言ってあげない。と固く決心する。
だいたいは、好きというのは本質的ではない。現象的には嫌いというのとほとんど同じである。
NとSが逆転することがある。磁性が消えるよりは簡単に起こる、のか、ちょっと適当である。

虚あるいは嘘

嘘でもいいから、毎日、あなたを愛していると言うべきである。
あるいは、毎日ありがとうと言えばよいのである。
毎日が過ぎていくのは、あなたのお陰である。そして、あなたの愛であると同値である。
毎日が過ぎていくというのは、幸福である。

少し寂しいのは標準的だ。しかし、あなたが居ないと寂しがるのは我が儘だろう。
もちろん、それが悪いわけではない。
そんなこんなで生きている。
しょうもないことが好きである。
しょうもないと言われるのがとても好きである。

2008/07/25

引き続き

ブログで何を書くかを考え中。
考えた時点で負けである。

どうするぴょん。

いや普通に。

トライクという乗り物があるとのこと。
ちょっと気になる。
説明は煩雑なので、Wikipediaでも引いて欲しい。

つまりは3輪の自動車っぽいバイクである。東南アジアなどで見かける気もするが、東南アジアに行ったことはないので、適当言っている。信じてはいけない。

3輪の自動車というのは、ごく普通にあった。たぶん、小学校高学年の頃までは、現役のバキュームカーがこの3輪だったと思う。バキュームカーというのは、し尿汲み取り用の車である。3輪の自動車は回転半径が小さいので田舎の細い道で民家の近くまで入るには最適なのである。
バキュームカーに限らずとも、小学校低学年のころは、3輪型のトラックはごくたまに見かけた。さらに、もっと小さい頃、うちにあったミゼットに乗っている写真があったりするが、さすがに、乗ったという記憶ははっきりしない。乗ったような気もする、という程度だが、たぶん錯覚か、後付けの記憶だろう。

トライク。ちょっと乗ってみたい気もするが、運転は、すこし疲れそうだ。
乗ったらかなり、どきどきするかもしれない。

2008/07/24

誰のために

ために、とか言ってはいけないのが、ブログかもしれない。
どうして、とかも言ってはいけないのである。
無心に書かねばならない。
というか、何も考えていないというのが、一番適するのだ。

本当か?

みんなが幸せになる書き方は何かないだろうか。

いや、何かこのブログの最初の方で違うことを言っていたような気もする。
いつのまにかこのていたらくである。

もうちょっと、だれも読みたくなくなるような内容にする、というのは面白いかもしれない。

2008/07/23

京極堂

『魍魎の匣』をレンタル屋でみつけて、衝動レンタル(衝動借り)。
原作をもう一度読んでもいいかなと思う。


否、そんなもの読み返すのならば、まだ京極堂の「邪魅の雫」は本棚に寝ている(立っている)ので読まねばの娘である。
「邪魅の雫」を棚から引っ張り出したら、全作品解説書が挟んであった(自分で挟んだ)。平成18年度版である。2006年9月の発行なので、早く読まないと、2年寝かせていることになってしまう。
まあ、別によいのではあるが。
 

2008/07/22

仏訳を

おしらせ。
泉由良さんの著作『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の朝見版仏訳をサイトにアップしました。遅くなった上に例によって拙い訳で済みません;

Eine kleine Nachtmusik

よろしければご覧下さい。
フランス語読めないという方は、
google仏英翻訳

仏語翻訳サイトなどをご利用くださいませ。
原作は泉さんのサイトにあります。日本語の方がよいという方はそちらをご覧いただくか、白昼社文庫を買いましょう。


朝見ブログの方にも書いていますので、そっちに書いていないことを。
仏和翻訳をかけると、「大豆、牛乳の木」となってしまっているところがあります。
原文は
Soya, bois du lait

boisは英語でいうdrinkの二人称に対する命令形なのですが、木、森、林を意味する名詞もbois
なのです。それは機械翻訳だからまあ、良しとして、Soyaは、そのままで大豆という名詞だったのでした。米語でもそうですか……。表記をSauyaに変えた方がソウヤに読みは近い気もしますが、どうしたものか悩めるところです。(※追記:現在はSouyaという表記に変えました。仏語読みだとスウヤになってしまうかもしれませんが、まあ、そういうことでご了承を)

2008/07/20

メンテ模様

twitterに休日限定で投稿しようつぃたら、メンテ中でできず。
ちなみに、ここの左側に(タイムラグはあるけれど)表示されるようにしている。フォローとか言う機能もあるらしいが、とくにお奨めするわけではない。RSSリーダに登録するという方法もある。これもとくにおすすめしない。

希釈されても、同じ溶液だったりするのでは面白くもなんともない。
このブログがほとんど独り言である。
いや、そもそもtwitterは独り言のツールなのだろうか。

2008/07/19

根本的な間違い

何を与えたいかを考えるべきであるが、
考えてしまうようでは、すでに駄目である。

そんなことでは当然どこにも愛は無い。もっとも、愛が与えることというのは間違っているようである。

くり返しくり返す

何も要らない。
それは嘘である。つまり偽である。

欲しいものしか要らない。と言えば正しいのかもしれない。おそらく真である。

欲しいものがあるのだろうか。

2008/07/18

倍ボツ

数が多いということは、埋没してしまうということである。
何がどう見えるかというのは、人間がすることであるので、時どきによって、違うのかもしれない。
というか、違う。
デジカメの功罪である。いや、良い点かもしれない。

もっとも、本当はデジカメでも数でもない。違うところに理由があるのである。
きっと。

2008/07/17

なしおえてしまった

岩波文庫今月の新刊。
ポオ『ユリイカ』を購入。
ぱらぱらと見てみる。──なんとなく、これはすごい。
散文詩。だそうだ。

ポオって誰だ? というのは措くとして。いや措かずともよいのか。EAP.エドガー・アラン・ポーである。

かまきり


蟷螂。

2008/07/16

ずりおちる輪

コーシーの積分定理の話は、昔、別のところに書いた。

複素平面上の積分であるので、証明せよと言われてもひょいひょいとできないのだけれど、数学的な話をしたいわけではない。少し言えば、f(z)が正則な領域D上での閉曲線Cの積分が0になる、というのがこの定理。正則じゃない点がCの内側にあるとゼロにならないのである。

たとえば、壁に釘を打つ。ここに輪を掛けようとする。掛けるためには、釘は輪の内側になければいけない。いろいろな輪を用意しても、釘の外に掛けた(つまり、釘に掛けていないわけだが)のでは、掛けることはできない。



笑い事ではない。
一生懸命、釘の外に輪を掛けようとしているのではないか。
何度やってもそれは無理である。

忘れてしまう

明日食べるパンがあることの幸福を、忘れているのである。それ以上の幸福があろうか。何を幸福ではないと不平を漏らすのか。



「またね」と言って別れたあの日に、何を願っていたのか、もう一度思い起こしてみるべきである。
本当は、誰の幸福を願っていたのか。誰の愛によって、誰が幸福であったのか。
そして、今は幸福でないというのか、よく考えてみるべきである。

拡張されるつぶやき

はたして。
私がここで何をつぶやけばよいのかというのが、一番の問題である。
言わば、raison d'êtore(レゾン・デ・トル)存在することの理由である。

私が何か。あなたにとって何であって、何を書くべきか。
何を書くことが、私に要求されているのか。

何を読みたいかでなく、何を読むのかということにも換言できそうである。

ふたたびtwitter

懲りずにtwitterのアカウントを再取得してみた。
とりあえず、原則的にこのtwitterはお休みのときのみ更新する、という方向で考えている。

というわけで、過去の発言を消したいのだが、消せなくて困っている。というか、困ったものである。⇒追記。WinのIEでやったら消えた。うーん。

2008/07/15

感傷あるいは緩衝

さだまさし、昔よく聴いていた。中学校のY先輩がカセットを倍速ダビングしてくれた。大きくなってはじめて買ったのは、さだまさしのCD「GLASS AGE」だったと思う。CDプレイヤーを買う前にCDを買ったので、行きつけのオーディオショップでカセットに落としてもらったのだった。
辛島美登里もよく聴いていた。そういえば、ファンクラブに入っていた気がする。
そう、ファンクラブと言えば、TARAKOのファンクラブに入っていた期間の方が長い。一度ライブにも行った。
最近は、あまり音楽を聴かない。
日本語の歌詞があると文章を読んだり書いたり他の作業ができないからだろうか。

それにしても、そういう頃があったのが信じられない気もする。
そんなに昔のはずはないのだけれど。
あるいは、今の私ではなかったのかもしれない。

2008/07/14

焦がれ

分かっているけれど、認められない。
何故なのか。
破たんするのが、それほど怖いのだろうか。
それは、きっと違うのであって。
破たんしてしまうならそれは楽ちんなのであるけれど、破たんを隠蔽あるいは修復させようとする変化が怖いのである。

しかし、と思う。
私(自分)の意のままになる部分は何かあるのだろうか。

抗っていても、おそらく時間というものによって、変わってしまうのである。
悲しいが、そういうものである。

2008/07/13

十の言葉

映画『十戒』を見てみる。
長い…… 3時間とちょっとある。休憩付き。リメイク版とのことであるが、2006年に50年記念のDVDなどが出ている。何故リメイクか、もとになった同監督の1923年版の十誡があるということ。そちらも見てみたいかもしれない。

さて、十戒というわけで、十戒とモーセが出てくるのは当たり前であるが……、感想などは別の場所に書くことにしよう。

2008/07/11

文庫は別か

Merci,
Je suis fatigué.
À bientôt(またあとで。)

積ん読禁止令が出ている気がするが、今月は文庫が色々。講談社から、はやみねかおるのアレと、篠田真由美のアレ。ともにシリーズなので買わなければいけない。

岩波からは、文庫復刊、アランの『音楽家訪問』買うべきか見合わせるか。文庫新刊では、ポオの『ユリイカ』が気になる。

京都は7月

あっという間に祇園祭(の宵山がもうすぐ)である。

どうして京都にいるのか訊かれたことがある。
単純かつ複雑な理由によるのであるが、そもそも人がどこにいるかということに意味はないのではないかと思う。

2008/07/10

エポケーのすすめ

楽しいところ、うらやむ処は目につく。逆に、苦しいところは見えない(見ない)かもしれないが、場合によってはあるいはちゃんと見れば、見えるかもしれない。

現象学的には、先入見をすてて、ゼロの状態から、状況を見ていくべきである。見ていないところが見えてくる。
プラスでもマイナスでもない部分が要らないということはない。

形にならない

何がって、愛が。

いや、愛はどうでもよくって。いや、どうでもよくないけれど。この際どうでもよくって。
幸せの形?
極大点が必ずしも安定な点というわけではないのである。

虚像あるいは、偽装という部分もあって、演出なのかもしれない。
騙されているほうが幸せなのだろう。
フィクションである。

現実だと、誰が言った?

2008/07/09

アラン

自分自身にがまんがならない人々、いろいろな情念のうちで最も愚かなものである羨望の念に悩まされる人びとを、エゴイストと名づけ、暴君とよぶべきであるとわたしは心得ているものだ。ねたみ深い人が自分自身を愛する人であるということはできない。逆にそういう人は自分自身を前にして悲しむのである。別の人間になりたいと思うのである。まぎれもなくむなしい野心だ。(アラン著作集3『情念について』(旧版)45:自己愛)

理系をしたい。

その昔、哲学者は科学者であった。まあ、知を愛するというわけで、同じと言えば同じかもしれない。

やり残していることは、一般相対論。
テンソルが出てくる。
電磁気学をちょろっとやっておいて、
共変形式に書き直して──と言っている自分が全く分かっていないのだが──つまりここでテンソルが出てくる。と、一般相対論もできるようになるらしい。

いや、さらっとながしたが、まず電磁気学が怪しいんじゃないかというしてきは正しかったりする。ナブラとか出てくる。怪獣みたいだ。ナブラの二乗がラプラシアン。やはり怪獣だ。

テンソル=ボスキャラみたいに見ているうちは克服できないかもしれない。

2008/07/08

一期一会

もっと感謝をこめて、文字を綴らなくてはいけない。
読んで貰えるのだとしたら、もっと喜ばなくてはならないし、中身の向上に努めなければならない。
愚痴っているだけではいけないのである。

いつまで書けるかわからないし、いつまで読んで貰えるかもわからないのであるから。

頽落

頽落(たいらく)というのはハイデガーか使った言葉だと思う。「存在と時間」38章。──もちろん元はドイツ語だろう。
やはり、存在と時間は読まねばならない。

2008/07/07

変化しているか

先日、名古屋の地下鉄、鶴舞線の荒畑駅で降りて、古書店に寄ってきた。
社会人になって就職し、しばらくこの駅で降りて会社に通った。最後に来たのが10年ちょっと前。町並みは変わっていて。どちらかと古い建物は建て替えられ、言うなれば、繁栄しているようであった。
その頃のことを少し思い出す。
楽しいこともあったような気もする。でも、いったい何のために無理をして働いていたのだろうか。

名古屋駅のユニモールという地下街、そこで知人に会って少し話す。ユニモールは専門校生の時に2年間歩いた通り道である。
今思えば、あまり有意義ではなかったというか、無駄に過ごしていたような気もする。毎日、本屋に寄って帰ったので、その時に買った本(おもに日本のSF文庫)が残っているというくらいだろうか。

とくに感慨深いというわけでもない。そういうこともあったというだけである。
先のことを思わなかったわけではない、と思う。実現していないのは、本当に望んでいないか、傲慢なエゴイズムであったか。あるいは、実は望んだことになっている、か。

今、私は何を望んでいるのか。
何年後かに私がいるとすれば、どこにいるのか。
ここを訪れたとき、何を思うのだろうか。

私はどこに行けばいいのか。

2008/07/06

ビンスワンガー

人生の意味への絶望と純粋主観性への解体とは、たがいに同一の事象の裏返しであろう。なぜなら、人生の意味はつねに、なにか超主観的なもの、普遍的なもの、「客観的なもの」、非個人的なものだからである。だがわれわれは、人間が人間であるかぎり、厳密な意味で、純粋主観性への解体は存在しないことを、確認せざるをえない。(現象学的人間学)

純粋主観性への解体とは何か。

2008/07/05

積んだる

田川建三著『新約聖書 ・ 訳と註』第1巻マルコ・マタイ福音書が発売された。
日本の聖書の問題は注釈がないところ。本文だけ読んでも意味がわからない。有り難いものならそれで良いという風潮があるのかもしれない。が、やはり、それではよろしくないように思う。

注釈が充実しているので、めちゃ厚い。まあ値段は妥当というか安いのであろう。
とりあえず、どこかで見てみるか……
買いません。今は。


※一般的に日本で入手が容易な聖書協会の新共同訳聖書のこと。

ビンスワンガー

ビンスワンガーを読む。

2008/07/04

3部作

携帯の待ち受けはムンクの「叫び」の画像にしてあるというムンク好きの私(誇張)。
今さら、この画が「不安」「絶望」という3部作?であることを知った。この3枚の画は橋?の上の人物?が違うだけで、背景などの構図はほとんど同じなのである。

ムンク(展)来ないだろうか。

2008/07/02

寂れる。


梅雨空の風力発電機。
tumblrネタだったかもしれない。何を書いていたのか忘れた。
仏語ネタだった気もする。
使っていないと忘れていくので、なにか考えなくてはいけない。

2008/07/01

積んでる注意報

6月は本を買いすぎた。猛省せよと言われている。
猛省したい。
もうしない。できるだけ、きっと。しばらくは。

ヴァイツゼッカーとビンスワンガーは余分だという意見が過半数。
マックス・ヤンマーの『量子力学の哲学』はどうせ読まないと言われているようである。読む、と言うしかない。いつか、たぶん。


まあ、しばらく買うの控えることにする。
と言うか、読めばよいのである。

2008/06/30

再読するは文庫

川原泉『バビロンまで何マイル?』
を読む。
覚えていない、忘れている。
いつ読んだかも覚えていない。7年から10年くらい前ではないかと推測するところ。忘れないように読む方法はあるだろうか。
もっとも、忘れてはいけない、ということもないのだから忘れても良いのか。というより、単に忘れっぽい?

2008/06/29

かーら教授

実家の本棚にはまんががある。
教授の『フロイト1/2』より「フロイト1/2」「たじろぎの因数分解」を読む。
2000年頃に主に古書店で文庫化された川原泉の本を買い求めた。同氏の漫画を初めて読んだのはさらに10年程前なんじゃないかと思う。食欲魔神シリーズ。どんな話だったか


あ、愛がある──。
今さらに気がついた。

2008/06/28

草稿

「小説を書いているんだが、どう思う?」と、彼は訊いた。
 そういうことを軽く問う彼は、高い確率で何も考えていないのである。そんなことで小説が書けるのだろうかと、我ながら心配になる。
 黙ったまま、少し考えた。
 小説を書くのは、たぶん、自由である。表現の自由というやつだ、きっと。どこに規定されているのかは知らないけれど、そんなものがあると聞いたような気がする。もっとも、書いてはいけないこともあるのかもしれない。いや、それは公開してはいけないのであって、書くのは自由だろう。誰も読まないのであれば、何を書いても問題はない。
 考えたが、そう言う応答を彼は望んでいないような気がする。考える方向を誤ったようだ。カンガルーではない。
 はっきり言えば、彼が小説を書こうが書くまいが、どうでもよいことである。書けば、友達のよしみで読むというだけだ。次作を待ちわびるというほど、少なくとも自分の趣味には合わないのだと思う。
「沈黙をもって答える」と、とりあえず答えてみた。
「なんだそりゃ? なんだか自己矛盾した答だな」不満そうである。まあ、そうだろう。
「じゃあ、何と言えば良かったのかな」
「そうだなあ……。まあ、いいや。それより、ちょっと話のプロットを聞いて欲しいんだ。どうも、詰まってしまって」
 そうまでして書く必要はないんではないだろうか。そう思うが、まあそれは言わないことにする。思ったことを言えば良いというわけでもないのだ。
「詰まって? と言うか、聞いても何も言えないと思うが?」聞いて何か言えるなら、自分が小説家になっていると思う。
「まあ、聞くだけでいいから。壁に向かって喋るよりは効果的だろう」
 壁と比較されても嬉しくはないが、壁よりも劣ると言われるよりはましかもしれない。

……(以下続く)

2008/06/27

古書

ペソアの情報をさがしていて、文壇高円寺というブログにたどり着いた話は前に書いた。
「sumus」とかにも関わっておられるらしい。「新・文學入門」やら、岡崎武志氏の名前も出ている。
あ? だからなんだ?
まあ、そういうところが、おもしろいのである。

関根清三先生と旧約聖書

関根清三『旧約聖書と哲学』(岩波書店)を買う。
関根氏については、拙ブログのノートを参照のこと。

三条大橋を歩いて渡る。欄干が木だなと思って通ったが、そこに付いているギボシのなかには秀吉の時代に作られたものもあるんだとか。どれだろう。歴史に疎いのでどのくらい古いのかすぐ分からないのだけれど、500年くらい昔らしい。

ホテルの前には修学旅行生のジャンボタクシーが列を成している。班行動なのだろう。どのくらい自由度があるかわからないけれど、見たいところを決められるのなら、それもおもしろいだろうか。まあ、完全な自由時間にしてしまえないのが中途半端とも言える。


BAL店では、古本コーナをもう一度見る。『新・文學入門』という本の企画。立ててあるサイン本の背後に普通の本があったので、少し立ち読み。
おもしろいかも。
仮想体験的にはおもしろいが、純粋におもしろいわけではない、のか。ただ、小説なども結局は同じものなのかもしれない。あるいは、純文学は違うだろうか。──すでにその分類をすること自体が何のためなのかと批判されるべきだが──

辻潤

絶望の書を買う。古書でしか入手できないが、比較的入手は楽。ネット時代になって、古書の入手はたぶん楽になった。
絶望という感じもしないが、現代では普通のような気もする。初出は昭和5年。当時の方が現代より現代っぽかったのかもしれない。


辻潤は、当時(いつだよ)ロンブローゾの『天才論』を訳出してベストセラーになったことで有名だとか。この「天才論」はほとんど入手不能である。昭和57年発行の全集には入っているようだけれど、情報がない。まあ、探す人も読む人もいないということか。 

2008/06/26

ありがとうが出ない

フランス語のthank you ってなんだっけ。としばらく考えても出てこない。
こういうのをボケ度忘れと言う
ちなみに、件の単語はmerciである。メルシー。Rの音は日本人にはハ行に聞こえる。痰がからんだようなというか喉の奥でうがいをするような音にするわけで、英語のRでは駄目である。メ(フ)スィと発音するとそれっぽい。まあでも、それで通じるかは知らない。

ちなみに、度忘れをするというのは、échapperという動詞を使うみたいで、忘れる物を主語に置き、忘れた人は目的語になる。お気づきのように、英語のescape(エスケープ:逃げる)に当たる語である。あくまでも度忘れは記憶?が逃げていったのだ。


時事ネタ
仕事場に置いてあった新聞。
祇園祭の山鉾の提灯の電球を電球型蛍光灯に替えるという。CO2削減になるとかなんとか。20w、40wの電球を60wの電球型蛍光灯に替えるとか。
どうしてワット数が上がって削減になるんだ!と突っ込んだけれど、どこにも書かれていない。たぶん、というか、60ワットタイプの電球型蛍光灯ということで、消費電力は15wくらいなのだ。いい加減な記事で、まじめに二酸化炭素削減など考えていないことがうかがえる。もっとも、こんなことで削減はできないので、まじめな記事を書く気が失せたというのかもしれないが。まあそんなことはありえない。

2008/06/25

4行詩

11,2世紀のペルシアの科学者、哲学者、詩人のハイヤール。『ルバイヤート』
パラパラ、と見てみる


もうすこし細かい共通点をあげると、ペソアも辻潤もペルシアの詩人、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』を愛読していた。

先日引用したブログペソアのトランクで、こんなことが書かれてあったので、買ってみた、というわけ。
なるほど、ペソアと雰囲気が似ているような気もする。
読んだ瞬間「お?」と思うのである。「お!」か。「お。」かもしれない。



どうせ何も無くなっちゃうので、酒でも呑もうね──みたいな詩があったりするのだけれど、穿った見方というか、読みが浅いのか。(それらは逆であるが)
ほんとうにそうなら、詩を書く必要はなくって、酒呑んで寝ていればよいんじゃないかと思う。

穿った見方や、深読みしなくても、分かりやすい言葉で書かれた、短い詩だ。ま、4行なんだから、短いし、短いから分かりやすくなる──とは言えないから、分かりやすく書かれた短い詩と言うしかないか。




人間が有限であるということについて、木村敏はこう書いている。
神のように無限に遍在しているものであったなら、「私」ということば、「自己」ということばそれ自身がなんの意味も持たないことになるだろう。

2008/06/24

地下鉄。太い竹の束を抱えている人を見かける。買ってきたのでしょうか。何をするんでしょう。

竹、鯉のぼりの竿とか、物干しの竿が竹でしたね。まあ、畑の裏山に孟宗竹の竹林があったので、普通に竹は入手できたのですが。竹に被せてお湯をかけると縮んでピッタリくっつくチューブを使っていたのを一度見かけた記憶がありますね。
>物干し竿カバー
商品情報>>
気まぐれでググってみたら、まだあるんですね。少し田舎では現役でしょうか。

2件の本屋を通り過ぎて、3件目を過ぎたところでルバイヤートを買うのを忘れたことに気づいて、すこし戻る。
その題名は、4行詩の複数形、とのことです。
買ってから気がつきましたが、青空文庫で読めますね。

楽しいこと書けよ

木村敏の本を読んでいます。

科学好きっ子が行き着く先は、私とは何か、です。もっとも、頭の良い人はそういうことは考えないという判断をするのかもしれません。

まあでも、私というのが脳の中の信号でできている、というのは分かったような気になりますが、どうして一人と言えるのでしょう。というか、ここでいう一人とは何か、です。
右手の神経が繋がる脳と、左手のそれは違う脳の部分なのでしょうけれど、それを私の左手、右手と一人の部分として認識しているのは何なのでしょう。

脳を見ていても解けそうにありません。
やはり、哲学的なアプローチが有効なんじゃないかと思います。

同じ?

って、内容、朝見ブログと変わらないじゃないか。
という指摘はすでに何度もされているような気がします。自分でも何度も突っ込んでいます。

単なる雑音であっても、おもしろくないものと、おもしろいものがある。

まあ、べつにおもしろくなくてもかまわない。おもしろくない方がよい。おもしろいとか言われたくない。

どうにもいい年をして、拗ねている気がする。
いい年とか言っても、だいたい、おとなになったって人格が変わるわけではない。全然進歩してませんけど。あ、僕だけですか、そうですか。いや、少しは進歩したか……も。

──毎日寂しくて泣いています。
とか、書くのはどうでしょうね。
でも、これではお客が減りそうですから、
──毎日寂しくて笑ってしまっています。
この方がよいかもしれません。

それにしても、まあ、どうでもいいことなのですが、独りでは困るという、そこに愛も恋もないほとんど実務的な理由で寂しかったりするのです。(あ、念のために言えばHな意味ではありません。と言うか、それはそれで許容できる理由だと思います)
それ以外に寂しい理由がありますでしょうか。

2008/06/23

買う買わない

BALのジュンク堂に、御池通から三条通をてくてく歩いて寄る。
特設の古本コーナとか、ふむふむ、と見る。競争になっているのだね。
ヨコジュンの本があるな、と思う。買わないけれど。

辻潤の本、講談社文芸文庫に一冊あるが、選り抜きみたいなものだろうか。手にとって見る。普通。普通というのは欲しくないわけでもないわけだ。でも買わない。
「絶望の書」というのが気になるのだが……、古本で買うしかないか。

ニーチェの「権力への意志」上下巻ちくま文庫。ほしいけれど、どうせ買っても読まないし、まだ買わない。この本から引用されることも多いので、買っておいてもよいのだけれど。
まだ買わない。

今月は、一冊買う予定の本がある。25日発行。

2008/06/22

威張れ

単に生きていることを威張れ。

というのは基本に措きたい考え方なのではないかと思う。
キェルケゴールによれば、ちゃんと絶望するのも簡単ではないように思う。


キェルケゴール信奉者なわけではないけれど、『不安の概念』『現代の批判』など、考えることに役立ちそうな本だと思う。

不安と言えば、ペソア。
散文の断片集である日本語訳『不穏の書、断章』はその一部を訳したもので、これは持っている。もっとぶ厚い『不安の書』というのが出ているが、こちらは持っていない。買っておかないと入手困難になるだろうか。

孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、そのしかたは分析的に定義することはできない。「『不穏の書、断章』p149(234)より抜粋」


ペソアのトランク

検索していたら、このようなブログが見つかった。ペソアを読む人は、辻潤『絶望の書』を読むべしという。絶望の書、まんまやーん。

退屈男と本と街
このブログは読まれているとか。


たまには時事ネタ。
タバコ1000円とか。
石油はどこまで上がるのだろうか。ガソリン1000円/Lとかになったら車に乗らない? さすがにそうなったらどうにもならないだろうから、そこまでは上がらない? ではどこまで上がるか。

慰めない

明らかに自分の意思で孤立してるような気もするが、客観的な判断はできない。私というものが関係に存在するのであれば、あんまり良い状況ではないことは確かかもしれない。
関係に存在するというのは、ある対象との間が存在するということである。時間的および空間的な拡がりを持つ誰かもしくは何かである。

いずれ、帰るところがなくなるのだろうな。
それはすこし、あるいはとても嫌だな。と思う。

必要とされたいとは思うが、それは愛とは別のもの。

すちゃらかで適当な奴なので、まあ、仕方がないやね。しょーもないの。

というわけで、オゥヴォア。

眠られぬ夜に

まっさきに人間に慰めを求めないで、神にそれを求めなければならない。すでに落着きをえてから、人間に向うべきである。(ヒルティ『眠られぬ夜のために 第1部』6月16日)


ある人の生涯において、かなり長い期間にわたって、詩篇110の待てという要求だけが、絶えまない導きとして役立つことがしばしばある。(前掲書 6月17日)


サイトの方で、遅れ気味にちまちま(誤用?)引用しています。(Pour « FÜR SCHLAFLOSE NÄCHTE »
というわけで、引用の引用など。

2008/06/21

雨が降ると本が湿気を吸って困りますね。

結城浩『数学ガール』という本が少し気になるこの頃。そういえば昔、著者のサイトで公開されていた(いる)(Web版)のを読んだ気がします。収録されている話は(Webで公開された)それとは異なるようです。
実は出たのは一年前で、近いうちに続編が出るとか。
まあ、たぶん買いませんが。
──文庫とかになれば買うかも


タイトル部分に写真をつけて見ました。曇ってますけど……。撮影地は、北海道は美瑛町(の筈)上富良野町。曇っている。フィルムを使うカメラで撮って、スキャナで取り込んだ画像です。

そう言えば、昨日、駅のホームで、フィルムをカメラにセットしている若者(?)を見かけました。ああ、フィルムが好きな人もいるのね。と思いながら見ると……。お、ブローニーじゃないか! 一眼レフじゃないようですが、フィルムはブローニーでした。でしたと言っても、私は使ったことないですけれどね。 


電子辞書がメーカから戻ってきました。

2008/06/20

何を書くの?

いつの間にか「である」調になっているOAA(当ブログの略称。今決めた)ですが、えーと、これで良いんでしょうか?

人に訊くことでではないですが……
まあ、ちょっと試行錯誤中ですということでお許しいただいて。
もう少しの間、暖かく見守ってあげてください(自分で言うか)

独り

ひとりというのは、寂しいとかそういうものは置いて措いても、いろいろな問題が潜在していたりする。まあ、そういう問題解決のために誰かを欲するというのもきっと悪ではない。愛ではないかもしれないが。
それを言うならば、恋、でもそう、結局そういうものはどうでもいい部分なのだ、と思う。
最終的に愛がなければ、破たんする。
できるのなら、愛を先取りしてしまえば、先のことを憂いずに済むのだろう。先取りと言っても、自分から奪うものではない。いずれにしても、恋というのは持続には全く役に立たない。

読書はキェルケゴール、絶望について。
平行して、木村敏の新書なども読み中。
ちょっと重い本ばかりで、軽い小説が読みたいと思いますが、京極の未読本とかか(それは重い)。

2008/06/17

恋というのは欲しているというもので、愛というのは与えるものである。

ここのブログは、タイトルにもあるようにアマンスな話題に特化しなければいけないという使命がある。アーメンスな話題ばかりではないかという指摘は的を射ているかもしれない、それもタイトルに含まれるので許容されたい。

第1行に書いた内容は、すくなくとも後半は誤りである。
後半が誤りであると言うことは、前半は当たっているというわけであるが、そういうことはあらためて人に言われなくても分かることである。
愛は与えるがゆえに豊かなのだ。したがって愛は本質的に高邁なものなのである。強いられてやむをえずの高邁ではないのだ。人間の精神の最も高い部分から是認されなければ、愛は生まれえないものなのである。(アラン『情念論』旧版p47)


欲しているとは何か。何を欲しているか。本当に定冠詞の何かを欲しているのか?
ただ愛したいだけというのも、それを欲しているだけでは高邁でないのである。

さみしいときにキスしてくれるだけでよいのに。
そう思っているのは誰なのだろうか。

キルケゴール続き

キルケゴールかキェルケゴールか、というのははっきりして欲しいけれど、Kierkeなので、キェルケのほうがより近いのかもしれない。もっとも、ゴールのほうは正しい音と全然違うじゃないか、というのは棚上げなのだった。

あらゆるもののうちで最も美しく最も愛らしい女性の青春でさえも、絶望でしかない、幸運の賜物以外のものではない。

とか言っていますが、まあそれは置くとして……


絶望しているのか絶望していないのかというのが単純ではないようで。なかなか深いものがある。
ボク絶望していますーと言っているから絶望しているとは言えないのである。そりゃそうだ。
ただ、逆もあるようで。一見普通なんだけど、それが絶望だったりする。いったい絶望とは何か。


とにかく、絶望することができるということは無限の優越である。──とキルケゴールは言う。

2008/06/16

どう?

どうしたいのか。
あるいは、何がしたいのかと考えてみる。
嘘とか。
あるいは、本質的でない部分。


ただ寂しいだけというのは、たぶん正しい。
答はたぶん単純である。

感謝

思えば、もちろん、愛があったし、今もある愛に、感謝すべきなのである。

愛さなければいけないのは、いつも自分である。

矮小

Amens(無分別者)なんていうタイトルにしているからといって、中身までそうならなくても良いのに、そうなっているのは題名のせいということにしておくと幸せだろうか。

何か書き始めると、愚痴っぽくなるような気もする。読む人の迷惑というのを考えるべきだと思う。思うなら書くなという指摘は正しい。こうなると、ぐるぐると自己励起的に悪化しそうである。悪あがきと言う。

困ったやつである。
自分で言っていれば世話はない。
穴でも掘ってそこに言うべきなのだろう。次にブログをつくるときは、タイトルを穴にしたら良いのかもしれない。


それにしても、本当に、どうしたものだろうか。
どうしたものだろうかというか、どうにかしないといけない。

2008/06/15

絶望とは。

絶望。
こういうときに当家の本棚はそれらしい本があったりする。
絶望といえば、キェルケゴールだ。その著書「死に至る病」によれば、「死に至る病とは絶望のことである」とか「絶望とは死に至る病である」とか書かれている。誤解がないように書いておくが、絶望によって死んでしまうということではない。それどころか、断じて死ぬことはない、とも言っている。
ちょっと読んでみよう。

有名な「自己とは自己自身に関係するところの関係である」もこの著書『死に至る病』に書かれている。
分かったようで分からないような、なんだかすごいぞ、みたいな定義である。
関係するところの関係って何だろうか。
10代、あるいは20代のうちに読んだら、面白いかもしれない。

トーマス・マンを読む。

「トニオ・クレーゲル」
これはおもしろい。
けれど彼女は絶対に来はしなかった。そういうことはこの世では起こらぬのである。全く昔と同じことだった、そうして彼は昔と同じように幸福だった。

このあと、その理由を明らかにする一節があるのだが、そう言いきってしまえば、もうそれ以上の反論は出てこないのである。
たかだか恋で、言わば妄想である。
苦悩である。狡猾である。泣くしかない。

ふたつの世界のあいだに立つ苦悩。自分をたいしたものじゃない、と言う詩人。

幸福だったのである。
なぜなら……と続く。続く部分は引用しないことにする。


幸福とは何だ。幸福であるなら、何に苦悩しているというのか。

2008/06/14

電子辞書と読書

電子辞書の内容に間違いがあったということで、修理に引き取られていく。紙の辞書でも誤植や誤記はあるが重版の際に直されたり、もうそのままで直されなかったりだから、まあそういうものだ。
本当に調べるならば、複数の辞書に違う方向から当たるのがよいのだろうけれど。

大人の(男の?)趣味とか言うとカメラとかクルマとか酒とかだろうか。まあ、男に限るわけでもないが、自分が(たぶん)男なので、という意味。
それ系のアニメとかも、もう今では一般的かもしれない。
語学というのは、まあ普通かもしれない。英会話とか。まあその他。
ヘブライ語だって、一部のキリスト教会などの勉強会みたいなところでは普通にやられている。普通というのは一般向けに、という意味で。

哲学はどうだろうか。まあ、趣味ではないのかもしれないけれど。
数学の方が趣味にしている人は多いかもしれない。とも思う。

2008/06/13

目的

ブログを書く理由というか、意味のようなものはあまり深く追究してはいけないというか、触れてはいけないことのようで。まあ、書いてしまえばそれでよし、なのか。それなら書くことがどんどん出てくるのかというと、そういうわけでもないらしい。
いくつかのパターンを用意しておいて、それを使えば簡単だろうか。

2008/06/11

本屋

本屋に寄って帰る小さな幸せ。


TVで見たハチクロの中に出てきた言葉を思い出す。
それを否定して、あるいは肯定して、さらに超越することは可能か。
それは誰のためか。
あるいは自分以外のためであることがこの世にかつて今も未来にあるのか。

2008/06/10

傾向と対策

既存のブログ(açamiBlog)と違う内容にしているつもりだが、どうだろう。大差ないかも、とか聞こえそうである(幻聴ではない)
さて。
何かのコトについて書くのはけっこう大変。アウトプットにしているつもりが、インプットの公開ということになってしまったりする。
いや、いったい最初何を書くつもりだったのだろうか。──たぶん深く考えていない。

2008/06/09

雨時々広辞苑

広辞苑第6版を買った。買ったのは電子辞書の追加コンテンツ。第5版が入っているけれど、古いから追加。
広辞苑を最初に買ったのは第3版だった。手元に実物がないのでいつ買ったのかはわからない。20年くらい前だろうか。たぶん、小説を書くために買ったのだ。でも、必ず広辞苑を引いていたわけではなく、普通は岩波の国語辞典を使っていて、意味の気になる単語だけ広辞苑で確認していた。

マタイ書くらいは読んでおけ、と言われそうで、まったくもってその通り。でも、1コリの「山を動かす〜」のところは、以前に「愛がどうの」という話題で引用しているのを思い出した。それで覚えていないというのは駄目駄目である。

某スタンダールの新訳がこき下ろされている。翻訳が悪いというわけではなくて(悪い部分もあるらしいけれど)日本語がおかしいとか、ごっそり抜けているとか、そういう翻訳以前の部分が問題みたいだ。悪い訳だと言われると読んでみたくなるけれど、読むなら既刊の訳書のほうだろうか。ちなみに原文はWikipediaからリンクされている。


少しカゼのような気も。
そういうときは寂しいのだった。
たとえば、彼女が欲しいのねという詩?の一節があったが、これはどういう意味なのだろう。この彼女が定冠詞か不定冠詞か、というようなところは些末な問題だと思うが、欲するというからには何かを得るんだろうか。
寂しいというのは欠落部分があるというか充足するべき隙間があるということか。
人間の生物的制約は、寂しい。
たとえば、それは僕には関係ないはずの部分なのだが、それによって寂しい。
関係ないはずの部分の補填は、常に純粋な愛に依っている。
いつもそれを忘れている。

2008/06/07

今さら現象学

現象学というのはよく分からない言葉で、哲学じゃないのかと思う。哲学というのは西周(にしあまね)の訳に依っているというのは哲学の最初の講義でかならず聴く内容だろうか。ギリシャ語のフィロソフィアからきているわけだから、愛知と訳してくれれば良かったと思う。言わば愛知学だ。


zumSem
なんとブログが始まっているのではないですか。ブリリアントですよ。



ヘブライ語をまたやりはじめようかと考えている。テキストは持ってきていないんで思っているだけ。ヘブライ語というのは文字で書くときに母音を(ほとんど)書かない。というか、母音の文字がない(のかな)。日本でも子ども向けの本にはすべてルビが入っているが、旧約聖書を見ると、母音記号というのが入っていて、読み間違えることがないようになっている。まあでも、KUUKIYOMEがKYでしたっけ、そこまで省略してもどうにかなるんだから母音が無くたってお茶の子さいさいだと言われそうだ。

それよりも仏検とかの方がよいのでは? まあ、そうか。




『欲望のあいまいな対象』という映画があるらしい。
僕には合わないんじゃないかと思うけれど、合わないとか言われると、ちょっと見てみたい。映画というものは時期を逃すと入手困難である。ていうかまあ、スクリーンで見るのが映画かもしれないけれど。

2008/06/06

全然足りない

フッサールの「デカルト的省察」は買ってあるようで買ってないと思ったらやっぱり買ってなかった。デカルトの「省察」は買ってあるけれど、ちょっと違う。フッサールと言えば「イデーン」だが、そっちは買ってある。置いてあるだけでは駄目なので、まあ順番に片付けていきたい。──と思う。
定番という本は岩波文庫やちくま文庫に入っている。入ってない本は全集を読むことになる。分売不可でも大きな書店では買えたり買えなかったり。インターネットで古書店の在庫を検索できるようになったのは喜ばしいが、入手不可能な本は存在する。──存在すると言っても存在しないわけでややこしや。

真面目に更新

眠られぬ夜のためにのために(6月3日)にはコリント人への第一の手紙13の2からの引用が含まれていた。「山を移す」信仰というものだが、なんだそれは?というわけで聖書の注釈にあたると、マルコ福音書11-22、マタイ福音書17−20でイエスが、信仰があれば山に動けと言い動かすことができるという意味のことを言っているのを指している、のだった。なるほど。

何をしようかというのは、まだ考え中。何もしないという選択もある。
10年前何をしていたのか思い出せない。小説も書いていないし、森博嗣ミステリも──10年前は微妙だけれど、逆に森ミステリなどに手を出す前はと言ってもよい──読んでない生活だった。11年前からサイトをやっているらしいので、ううむ、まああまり記憶に残らない生活をしていたらしい。

2008/06/05

悩みのない人

そういう人はいないというか、誰でも悩みのひとつやふたつくらい抱えているわい、というのがたぶん本当だと思う。現在の生活が充足していても、まあそれがいつまでも続くという保証はないわけで。

悩むというのは、考えるにニヤリイコールなのだろうか。
何もなしに生きていることは人間らしいと言えるのか否か。つまり、考えないことが人間らしくないのではないか。

まあこの辺りハイデガーを読まないといけないようで、いよいよ存在と時間に手をつける時だろうか。
そういえば、ヤスパースも一部しか読んでいない。ヤスパースの哲学は具体的な事柄について論じているので役に立ちそうだが、哲学なので分かりやすいかどうかは何とも言えない。その点はアランのプロポは具体的で分かりやすい。まあ、哲学の勉強としてはどうなのかという点もあるけれど、哲学の勉強することにあんまり意味はない。自ら哲学するべきなのである。

ガソリンが高いらしい。
石油が高いのか。
経済の勉強は全くしたことがないししたくもないけれど、値段が高くても売れるから上がるんだろう。中国が輸出から輸入国に転じたり、インドで安い車が販売されたり──自動車がどの程度の割合で石油を使用しているのか知らないけれど──石油に変わるエネルギー源はなにかないのだろうか。
ていうか、石油というのは一説では古代の植物が元になって地中で変成した物だとか言われていて、だとすれば、それは太陽エネルギーの貯金のようなものである。バイオ燃料とかは貯金しないで使っちゃおうということか。
いずれにしてももともとは太陽エネルギーしかないわけなのだけれど。
やっぱり、ちょっと人口減らないとまずいのね、というか、今の人口で足りないとか言っていたらこの先どうするのかってちょっとかなり問題なんじゃないだろうか。見て見ぬふりで、誰もそう言う(何十年も)先のことは考えない考えない。

ガソリンと言えば車、デートに車って安易だったけれど、まあそういう定番だったような。今はそういう時代ではないのか。データはないけれど。

2008/06/04

要求

安らいで眠りたい。
(※安らかに眠るではない。※※不眠症なわけではない)

それがなかなかかないませんね。
高すぎる望みなのでしょう。きっと。

請い

恋というのも、非常に普通で、ほとんど思考というのはもうカタログに載っているようなものである。やることは単純で、あんまりバリエーションがない。バリエーションはないけれど、恋について小説に書く、あるいは恋するのは条件さえ整えば難しいことではない気もする。
べつにそんなに好きじゃない。
好きかどうかは問題じゃない。
その条件は十分条件ではない。
愛は無造作にその辺に転がっていたりして、気をつけていない踏んづけでしまっていたりする。あ、君の愛ここにあったの?
そんなとき僕の愛などというのは一生懸命砂でこしらえていてこしらえているんだけれどあんまり格好良く形にならないというかほとんど崩れていて、愛なのか何のかさっぱり解らない。

2008/06/03

へたれ

へたれている記事などは誰も読みたくないんじゃないかと思う。読むのは大丈夫だとして、多分あんまり読んでも楽しくない。楽しいものだけ書くというのはそれはそれで余分なフィルターを通ることになるのだが、果たしてどちらがよいのであろうか。

ていうか、へたれているのか? と言うと、そうかもしれない。凹んでいるのではなくてへたれている、へたれってなんだよ説明してくれよ。という要望にはお応えできないので許してください。単純じゃないので、ちょっと説明ができないのです。
理性的にはまったくなにもへたれる理由はなくて、場合によっては嬉しいとさえ言えるんじゃないかと思う。じゃあ、なんでへたれなのか。まあ、中也のように言うなら、野望が紛糾しているのだろう、か。
まあ、へたれる余裕があるというか出てきたのね。ふにゅ。
とうわけで、何か新しいことをしないと──あ、まあ新しくなくても良いわけだけれど──いけないと思う今。

少し前は、小説を書いていたが、もう全然書いてない。ペソアみたいに断章を書こうかしら。いやそれは真似であるし、そもそも書けないのではないか。その前に断章を読め、と言われる。読めと言われるともう本がいっぱいあるので、これを読んでもばちは当たらない。
じゃあ、読もうかー。

2008/06/02

雨の所為じゃない

雨。梅雨入り。
寂しくて泣いていたのはいつだろうとか考えてみても、寂しいから泣いていたというような記憶はない。幸福なのだろう。阿呆みたいな話であるが、なんとな長く生きているのだろうとか思う。
幸せだった。か。
幸せ、というか、自分勝手だろうか、早く言えば。我が儘と言えば近いだろうか。
ただまあ、少し寂しい。
ひとり。
ひとりが嫌だというわけではない。本当だろうか。
多分きっと本当。だから我が儘なのである。

ぼけっと

リスボン物語のDVDを見る。二回見るほど面白いのか、というと、まあそうでもないかもしれないが、派手なシーンは出てこないので見ていて疲れないのでちょうどいいのね。ヴィム・ヴェンダースの作品、他にもあるのだろうか、適当な映画が。

泉由良さんの小説の仏訳第二弾は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。とりあえず、最後まで訳出した。訳を見直して、この小説の特異な部分をどうするか考えないといけない。──というか既に考えてはいるのだけれど、うまくいくのかどうかはやってみないとなんともかんとも。しかし、こんな下手くそな──いや下手ならまだしもそのレベルまで達していない訳を公開して、原作もこんな意味不明な文章だと思われていたらどうしよう。どうしようと思うなら止めておけばよいのかもしれない。こういうのを矛盾という。矛盾というより無茶苦茶だ。

ビールを飲みながら、やさぐれている。やさぐれているというより、くだを巻いている。やさぐれるという語は広辞苑にはないようで、新しい広辞苑を買わなくてはいけないかもしれない。というか、欲しい。最新の辞書が無いと落ち着かないのである。あるいは、拗ねているのか。拗ねているのではなくて、幼いだけだったりするかも。
本家ブログ「問題か野望か」でもとりあげた中也の言葉、『問題は、紛糾してはゐない。野望が、紛糾してゐる。』(朝見ブログ:「あった」)というのがオリジナル。紛糾しているのは野望であるというのは、まあ、するどい指摘だと思う。つまり、なんというか、できれば自分に有利なように進んで欲しいわけで、それでは全く愛ではない。

愛というのは選択である。
愛することも愛さないことも選択できる時に、愛を選ぶことに、そこに愛の価値がある。
そういう小説はないか? 誰かそういうことを言っていないか。ここ数年来、それを探している。
例えば、好きというのは、恋と言っても良いが、選択などというものはないのであって、ただ、どれだけ欲しいかという、あるいは自分だけ嬉しい状態になるかというだけである。──では、好きより、好きでない方が善いのか。好きじゃない。
あの日、愛はなかったのか。愛を選択したのは誰だったのか。今、愛しているの主語は誰なのか。
そんなことさえもわからなかったのか。
が、それが悪いわけじゃない。

夜も更け。ぼけっとしながら、そんなことを考えている。

2008/06/01

見てねと誰が言うのか

見てねと書いておいて、全然更新されないのはどういうことなのだとお叱りを受けそうですが、実際にお叱りを受けないところをみると、誰も期待していないのか、誰も見てないのかいずれかでしょう。

こちらに誘導したのは、左側に他のブログの更新状況が表示されるからであって、別にここが毎日更新されるというわけではないので、念のため書いておきます。まあ、だからといってあたらしくリンクしておいて更新がないのは良いということはないのですが……

まあ、たまに更新されるトップページと考えれば、あんまり更新しなくても大丈夫かもしれません。そうだ、そういうことにしましょう。

8社共同復刊から、3冊を購入しました。リンクは本棚もしくはブクログから。「量子力学の哲学(上)(下)」「ヒルティ伝」の3冊です。積ん読が増えただけという気もしますが。前者は哲学と書いてありますが、哲学の本ではなくて量子力学の本です。哲学と題されているのは、考え方のアドバイスのようなものを含むからでしょう。通常の教科書が淀まない証明のような書き方になっているのとは異なるわけです。でも難しいのよ。


読書は北森鴻のミステリとか、木村敏の現象学など。古典というか、シェイクスピアとかもう何冊か読もうか、とか思うところ。フランス語の勉強は進んでいませんが、どうしたものでしょう。

2008/05/30

何を書くの

何を書くかを書くという、最初から意味のないことをしようとしている気がします。
意味がないなら止めておけ、と言われそうですが、意味があるか無いかは書いている今は判断できませんし、意味があるかないかはあまり重要なことではないのかもしれません。すべての存在は別に意味を要請されているわけではないのです。

あるいは、逆に言えば、存在しているんだから意味がある。だから、意味があるないというのはそもそも意味のない議論なわけですね。意味のない議論に意味はないのかというパラドックス。この種のパラドックスはラッセルのパラドックスでしょうか……。まあそれはどうでも良いのですね。

と、このような話になってくると、存在とは何ぞや、ということになって、言葉の問題じゃないか、という考えも出てくるわけですが、そういうことを言うには、やはりハイデガーとか読んでおかないとだめですよね。積ん読じゃだめです。デリダとかレヴィナスもツン毒してありますが、ハイデガーの「存在と時間」は読まないといけないでしょうね。どうしても。

ハイデガーの話はいつか本を読んでからすることにしましょう。(いつだ?)
今読んでいる本はアラン。アランはプロポという書き方をとっているのですが、まあ、短い文で簡潔にまとめた形式とでも言えばよいのでしょうか。
別の場所ではヒルテイを読んでいますが、ヒルティはキリスト教的な思想があるので、それがクッションになるのですが、アランの場合はクッションがないのでグサッと突き刺さるというか、ズバッと切断うぎゃー、みたいないさぎよさがあります。
というわけで、ネタに詰まったら、アランの言葉に助けてもらうことにして、適当に意味のないことを書きつつ──と、このブログ進めていこうなどと考えています。

2008/05/28

OMNIS AMANS AMENS

本家の朝見ブログに書かない内容を書こうというつもりなのですが……。何故に本家で書かないのか(書けない?)と問われても困るのですが、まあ飽きたらまた集約するかもしれませんし、切り捨てられるかもしれません。

今日の話題はブログのタイトルですが、今日の記事のタイトルにもしてみました。ラテン語の参考書から引用した一節。ちなみにその本は積んどくなのですが、それはまあ措くとして、えー、恋人に贈る指輪には是非この一節を彫りたいですね。

まあ、かつては、次の一節を彫りたいとも思っていましたが、いまは、どうかな、やはり使わないでしょうね……。使うという人は別に止めませんが。新約聖書の一節、ラテン語である必要はないのですが、ラテン語ヴルガータだとこうなっています。

caritas numquam excidit.
英語だとLove is never ends 1コリ13の8です。愛は尽きない、みたいな感じでしょうか。


さて、で、その前掲の文句(OMNIS AMANS AMENS)はいったいどんな意味なんだ、というのは──書かない?でいきましょうか。
このブログ、そういう話題(どういう話題なのか?)でいくのかもしれません。

2008/05/27

ずっと

ずっと放置してあったここを使おうかと思って、ログインIDとパスが分からなくてあたふた右往左往。これを開設した当時は独立したアカウントだったんだけれど、その後Googleのアカウントに統一されて、Googleでログインすれば入れるようになった。んだけれど、前のアカウントをGoogleのアカウントに統合する手続きがしてなかったらしい。どこから入ればいいのだー。

というわけで、ごそごそやっていたら、なんとか統合の処理画面が出てきました。さらにごにょごにょやって、やっとアクセスできました。

アドレスを見ておやっと思う人はかなりの朝見通?です。はてな開設時のタイトルですよね。そう。実は、Blogger(ここ)でやろうかなっと思って、MacのIEで表示が乱れるという理由などで「はてな」にしたのです。その後使わずに放置されていたのですが……

さてー何に使いましょうかー。