好きならば、20キロバイトくらい書けると威張ってみたけれど、そんなに書くことがない。そんなに書くことがないどころか、まったく書くことがないような気もする。
好きというのは、何か。それは、関係可能、あるいは、関係希望、のことだ。
恋の詞なんて、だから、いくらでも書ける。どんなに好きかを書けばよいのだから。
どこが好きか、何が好きかは、ちょっと難しい。書いてしまうと、滑稽になってしまう。小指の爪の形が好きというのは意味不明であるし、耳が好きというのもちょっとマイナである。鎖骨あたりは普通かもしれないが、背中のRが好きというのはあまり聞かない。それにしても、容姿についてしか出てこないのはすでに貧困である。
やさしい気持ちは、好きかもしれない。好きというのは、正しくないかもしれない。
動いているところが、好きだ。どう動いているかを書く文才が無いのは、もちろん私の所為である。
あとは、何があるだろうか。
もしかしたら、私のことが嫌いなところが、一番好きなのかもしれない。
それにしたって、好きなんて、些末なことである。
砂連尾理さんと踊る
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