2008/06/02

ぼけっと

リスボン物語のDVDを見る。二回見るほど面白いのか、というと、まあそうでもないかもしれないが、派手なシーンは出てこないので見ていて疲れないのでちょうどいいのね。ヴィム・ヴェンダースの作品、他にもあるのだろうか、適当な映画が。

泉由良さんの小説の仏訳第二弾は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。とりあえず、最後まで訳出した。訳を見直して、この小説の特異な部分をどうするか考えないといけない。──というか既に考えてはいるのだけれど、うまくいくのかどうかはやってみないとなんともかんとも。しかし、こんな下手くそな──いや下手ならまだしもそのレベルまで達していない訳を公開して、原作もこんな意味不明な文章だと思われていたらどうしよう。どうしようと思うなら止めておけばよいのかもしれない。こういうのを矛盾という。矛盾というより無茶苦茶だ。

ビールを飲みながら、やさぐれている。やさぐれているというより、くだを巻いている。やさぐれるという語は広辞苑にはないようで、新しい広辞苑を買わなくてはいけないかもしれない。というか、欲しい。最新の辞書が無いと落ち着かないのである。あるいは、拗ねているのか。拗ねているのではなくて、幼いだけだったりするかも。
本家ブログ「問題か野望か」でもとりあげた中也の言葉、『問題は、紛糾してはゐない。野望が、紛糾してゐる。』(朝見ブログ:「あった」)というのがオリジナル。紛糾しているのは野望であるというのは、まあ、するどい指摘だと思う。つまり、なんというか、できれば自分に有利なように進んで欲しいわけで、それでは全く愛ではない。

愛というのは選択である。
愛することも愛さないことも選択できる時に、愛を選ぶことに、そこに愛の価値がある。
そういう小説はないか? 誰かそういうことを言っていないか。ここ数年来、それを探している。
例えば、好きというのは、恋と言っても良いが、選択などというものはないのであって、ただ、どれだけ欲しいかという、あるいは自分だけ嬉しい状態になるかというだけである。──では、好きより、好きでない方が善いのか。好きじゃない。
あの日、愛はなかったのか。愛を選択したのは誰だったのか。今、愛しているの主語は誰なのか。
そんなことさえもわからなかったのか。
が、それが悪いわけじゃない。

夜も更け。ぼけっとしながら、そんなことを考えている。

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