2008/06/30

再読するは文庫

川原泉『バビロンまで何マイル?』
を読む。
覚えていない、忘れている。
いつ読んだかも覚えていない。7年から10年くらい前ではないかと推測するところ。忘れないように読む方法はあるだろうか。
もっとも、忘れてはいけない、ということもないのだから忘れても良いのか。というより、単に忘れっぽい?

2008/06/29

かーら教授

実家の本棚にはまんががある。
教授の『フロイト1/2』より「フロイト1/2」「たじろぎの因数分解」を読む。
2000年頃に主に古書店で文庫化された川原泉の本を買い求めた。同氏の漫画を初めて読んだのはさらに10年程前なんじゃないかと思う。食欲魔神シリーズ。どんな話だったか


あ、愛がある──。
今さらに気がついた。

2008/06/28

草稿

「小説を書いているんだが、どう思う?」と、彼は訊いた。
 そういうことを軽く問う彼は、高い確率で何も考えていないのである。そんなことで小説が書けるのだろうかと、我ながら心配になる。
 黙ったまま、少し考えた。
 小説を書くのは、たぶん、自由である。表現の自由というやつだ、きっと。どこに規定されているのかは知らないけれど、そんなものがあると聞いたような気がする。もっとも、書いてはいけないこともあるのかもしれない。いや、それは公開してはいけないのであって、書くのは自由だろう。誰も読まないのであれば、何を書いても問題はない。
 考えたが、そう言う応答を彼は望んでいないような気がする。考える方向を誤ったようだ。カンガルーではない。
 はっきり言えば、彼が小説を書こうが書くまいが、どうでもよいことである。書けば、友達のよしみで読むというだけだ。次作を待ちわびるというほど、少なくとも自分の趣味には合わないのだと思う。
「沈黙をもって答える」と、とりあえず答えてみた。
「なんだそりゃ? なんだか自己矛盾した答だな」不満そうである。まあ、そうだろう。
「じゃあ、何と言えば良かったのかな」
「そうだなあ……。まあ、いいや。それより、ちょっと話のプロットを聞いて欲しいんだ。どうも、詰まってしまって」
 そうまでして書く必要はないんではないだろうか。そう思うが、まあそれは言わないことにする。思ったことを言えば良いというわけでもないのだ。
「詰まって? と言うか、聞いても何も言えないと思うが?」聞いて何か言えるなら、自分が小説家になっていると思う。
「まあ、聞くだけでいいから。壁に向かって喋るよりは効果的だろう」
 壁と比較されても嬉しくはないが、壁よりも劣ると言われるよりはましかもしれない。

……(以下続く)

2008/06/27

古書

ペソアの情報をさがしていて、文壇高円寺というブログにたどり着いた話は前に書いた。
「sumus」とかにも関わっておられるらしい。「新・文學入門」やら、岡崎武志氏の名前も出ている。
あ? だからなんだ?
まあ、そういうところが、おもしろいのである。

関根清三先生と旧約聖書

関根清三『旧約聖書と哲学』(岩波書店)を買う。
関根氏については、拙ブログのノートを参照のこと。

三条大橋を歩いて渡る。欄干が木だなと思って通ったが、そこに付いているギボシのなかには秀吉の時代に作られたものもあるんだとか。どれだろう。歴史に疎いのでどのくらい古いのかすぐ分からないのだけれど、500年くらい昔らしい。

ホテルの前には修学旅行生のジャンボタクシーが列を成している。班行動なのだろう。どのくらい自由度があるかわからないけれど、見たいところを決められるのなら、それもおもしろいだろうか。まあ、完全な自由時間にしてしまえないのが中途半端とも言える。


BAL店では、古本コーナをもう一度見る。『新・文學入門』という本の企画。立ててあるサイン本の背後に普通の本があったので、少し立ち読み。
おもしろいかも。
仮想体験的にはおもしろいが、純粋におもしろいわけではない、のか。ただ、小説なども結局は同じものなのかもしれない。あるいは、純文学は違うだろうか。──すでにその分類をすること自体が何のためなのかと批判されるべきだが──

辻潤

絶望の書を買う。古書でしか入手できないが、比較的入手は楽。ネット時代になって、古書の入手はたぶん楽になった。
絶望という感じもしないが、現代では普通のような気もする。初出は昭和5年。当時の方が現代より現代っぽかったのかもしれない。


辻潤は、当時(いつだよ)ロンブローゾの『天才論』を訳出してベストセラーになったことで有名だとか。この「天才論」はほとんど入手不能である。昭和57年発行の全集には入っているようだけれど、情報がない。まあ、探す人も読む人もいないということか。 

2008/06/26

ありがとうが出ない

フランス語のthank you ってなんだっけ。としばらく考えても出てこない。
こういうのをボケ度忘れと言う
ちなみに、件の単語はmerciである。メルシー。Rの音は日本人にはハ行に聞こえる。痰がからんだようなというか喉の奥でうがいをするような音にするわけで、英語のRでは駄目である。メ(フ)スィと発音するとそれっぽい。まあでも、それで通じるかは知らない。

ちなみに、度忘れをするというのは、échapperという動詞を使うみたいで、忘れる物を主語に置き、忘れた人は目的語になる。お気づきのように、英語のescape(エスケープ:逃げる)に当たる語である。あくまでも度忘れは記憶?が逃げていったのだ。


時事ネタ
仕事場に置いてあった新聞。
祇園祭の山鉾の提灯の電球を電球型蛍光灯に替えるという。CO2削減になるとかなんとか。20w、40wの電球を60wの電球型蛍光灯に替えるとか。
どうしてワット数が上がって削減になるんだ!と突っ込んだけれど、どこにも書かれていない。たぶん、というか、60ワットタイプの電球型蛍光灯ということで、消費電力は15wくらいなのだ。いい加減な記事で、まじめに二酸化炭素削減など考えていないことがうかがえる。もっとも、こんなことで削減はできないので、まじめな記事を書く気が失せたというのかもしれないが。まあそんなことはありえない。

2008/06/25

4行詩

11,2世紀のペルシアの科学者、哲学者、詩人のハイヤール。『ルバイヤート』
パラパラ、と見てみる


もうすこし細かい共通点をあげると、ペソアも辻潤もペルシアの詩人、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』を愛読していた。

先日引用したブログペソアのトランクで、こんなことが書かれてあったので、買ってみた、というわけ。
なるほど、ペソアと雰囲気が似ているような気もする。
読んだ瞬間「お?」と思うのである。「お!」か。「お。」かもしれない。



どうせ何も無くなっちゃうので、酒でも呑もうね──みたいな詩があったりするのだけれど、穿った見方というか、読みが浅いのか。(それらは逆であるが)
ほんとうにそうなら、詩を書く必要はなくって、酒呑んで寝ていればよいんじゃないかと思う。

穿った見方や、深読みしなくても、分かりやすい言葉で書かれた、短い詩だ。ま、4行なんだから、短いし、短いから分かりやすくなる──とは言えないから、分かりやすく書かれた短い詩と言うしかないか。




人間が有限であるということについて、木村敏はこう書いている。
神のように無限に遍在しているものであったなら、「私」ということば、「自己」ということばそれ自身がなんの意味も持たないことになるだろう。

2008/06/24

地下鉄。太い竹の束を抱えている人を見かける。買ってきたのでしょうか。何をするんでしょう。

竹、鯉のぼりの竿とか、物干しの竿が竹でしたね。まあ、畑の裏山に孟宗竹の竹林があったので、普通に竹は入手できたのですが。竹に被せてお湯をかけると縮んでピッタリくっつくチューブを使っていたのを一度見かけた記憶がありますね。
>物干し竿カバー
商品情報>>
気まぐれでググってみたら、まだあるんですね。少し田舎では現役でしょうか。

2件の本屋を通り過ぎて、3件目を過ぎたところでルバイヤートを買うのを忘れたことに気づいて、すこし戻る。
その題名は、4行詩の複数形、とのことです。
買ってから気がつきましたが、青空文庫で読めますね。

楽しいこと書けよ

木村敏の本を読んでいます。

科学好きっ子が行き着く先は、私とは何か、です。もっとも、頭の良い人はそういうことは考えないという判断をするのかもしれません。

まあでも、私というのが脳の中の信号でできている、というのは分かったような気になりますが、どうして一人と言えるのでしょう。というか、ここでいう一人とは何か、です。
右手の神経が繋がる脳と、左手のそれは違う脳の部分なのでしょうけれど、それを私の左手、右手と一人の部分として認識しているのは何なのでしょう。

脳を見ていても解けそうにありません。
やはり、哲学的なアプローチが有効なんじゃないかと思います。

同じ?

って、内容、朝見ブログと変わらないじゃないか。
という指摘はすでに何度もされているような気がします。自分でも何度も突っ込んでいます。

単なる雑音であっても、おもしろくないものと、おもしろいものがある。

まあ、べつにおもしろくなくてもかまわない。おもしろくない方がよい。おもしろいとか言われたくない。

どうにもいい年をして、拗ねている気がする。
いい年とか言っても、だいたい、おとなになったって人格が変わるわけではない。全然進歩してませんけど。あ、僕だけですか、そうですか。いや、少しは進歩したか……も。

──毎日寂しくて泣いています。
とか、書くのはどうでしょうね。
でも、これではお客が減りそうですから、
──毎日寂しくて笑ってしまっています。
この方がよいかもしれません。

それにしても、まあ、どうでもいいことなのですが、独りでは困るという、そこに愛も恋もないほとんど実務的な理由で寂しかったりするのです。(あ、念のために言えばHな意味ではありません。と言うか、それはそれで許容できる理由だと思います)
それ以外に寂しい理由がありますでしょうか。

2008/06/23

買う買わない

BALのジュンク堂に、御池通から三条通をてくてく歩いて寄る。
特設の古本コーナとか、ふむふむ、と見る。競争になっているのだね。
ヨコジュンの本があるな、と思う。買わないけれど。

辻潤の本、講談社文芸文庫に一冊あるが、選り抜きみたいなものだろうか。手にとって見る。普通。普通というのは欲しくないわけでもないわけだ。でも買わない。
「絶望の書」というのが気になるのだが……、古本で買うしかないか。

ニーチェの「権力への意志」上下巻ちくま文庫。ほしいけれど、どうせ買っても読まないし、まだ買わない。この本から引用されることも多いので、買っておいてもよいのだけれど。
まだ買わない。

今月は、一冊買う予定の本がある。25日発行。

2008/06/22

威張れ

単に生きていることを威張れ。

というのは基本に措きたい考え方なのではないかと思う。
キェルケゴールによれば、ちゃんと絶望するのも簡単ではないように思う。


キェルケゴール信奉者なわけではないけれど、『不安の概念』『現代の批判』など、考えることに役立ちそうな本だと思う。

不安と言えば、ペソア。
散文の断片集である日本語訳『不穏の書、断章』はその一部を訳したもので、これは持っている。もっとぶ厚い『不安の書』というのが出ているが、こちらは持っていない。買っておかないと入手困難になるだろうか。

孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、そのしかたは分析的に定義することはできない。「『不穏の書、断章』p149(234)より抜粋」


ペソアのトランク

検索していたら、このようなブログが見つかった。ペソアを読む人は、辻潤『絶望の書』を読むべしという。絶望の書、まんまやーん。

退屈男と本と街
このブログは読まれているとか。


たまには時事ネタ。
タバコ1000円とか。
石油はどこまで上がるのだろうか。ガソリン1000円/Lとかになったら車に乗らない? さすがにそうなったらどうにもならないだろうから、そこまでは上がらない? ではどこまで上がるか。

慰めない

明らかに自分の意思で孤立してるような気もするが、客観的な判断はできない。私というものが関係に存在するのであれば、あんまり良い状況ではないことは確かかもしれない。
関係に存在するというのは、ある対象との間が存在するということである。時間的および空間的な拡がりを持つ誰かもしくは何かである。

いずれ、帰るところがなくなるのだろうな。
それはすこし、あるいはとても嫌だな。と思う。

必要とされたいとは思うが、それは愛とは別のもの。

すちゃらかで適当な奴なので、まあ、仕方がないやね。しょーもないの。

というわけで、オゥヴォア。

眠られぬ夜に

まっさきに人間に慰めを求めないで、神にそれを求めなければならない。すでに落着きをえてから、人間に向うべきである。(ヒルティ『眠られぬ夜のために 第1部』6月16日)


ある人の生涯において、かなり長い期間にわたって、詩篇110の待てという要求だけが、絶えまない導きとして役立つことがしばしばある。(前掲書 6月17日)


サイトの方で、遅れ気味にちまちま(誤用?)引用しています。(Pour « FÜR SCHLAFLOSE NÄCHTE »
というわけで、引用の引用など。

2008/06/21

雨が降ると本が湿気を吸って困りますね。

結城浩『数学ガール』という本が少し気になるこの頃。そういえば昔、著者のサイトで公開されていた(いる)(Web版)のを読んだ気がします。収録されている話は(Webで公開された)それとは異なるようです。
実は出たのは一年前で、近いうちに続編が出るとか。
まあ、たぶん買いませんが。
──文庫とかになれば買うかも


タイトル部分に写真をつけて見ました。曇ってますけど……。撮影地は、北海道は美瑛町(の筈)上富良野町。曇っている。フィルムを使うカメラで撮って、スキャナで取り込んだ画像です。

そう言えば、昨日、駅のホームで、フィルムをカメラにセットしている若者(?)を見かけました。ああ、フィルムが好きな人もいるのね。と思いながら見ると……。お、ブローニーじゃないか! 一眼レフじゃないようですが、フィルムはブローニーでした。でしたと言っても、私は使ったことないですけれどね。 


電子辞書がメーカから戻ってきました。

2008/06/20

何を書くの?

いつの間にか「である」調になっているOAA(当ブログの略称。今決めた)ですが、えーと、これで良いんでしょうか?

人に訊くことでではないですが……
まあ、ちょっと試行錯誤中ですということでお許しいただいて。
もう少しの間、暖かく見守ってあげてください(自分で言うか)

独り

ひとりというのは、寂しいとかそういうものは置いて措いても、いろいろな問題が潜在していたりする。まあ、そういう問題解決のために誰かを欲するというのもきっと悪ではない。愛ではないかもしれないが。
それを言うならば、恋、でもそう、結局そういうものはどうでもいい部分なのだ、と思う。
最終的に愛がなければ、破たんする。
できるのなら、愛を先取りしてしまえば、先のことを憂いずに済むのだろう。先取りと言っても、自分から奪うものではない。いずれにしても、恋というのは持続には全く役に立たない。

読書はキェルケゴール、絶望について。
平行して、木村敏の新書なども読み中。
ちょっと重い本ばかりで、軽い小説が読みたいと思いますが、京極の未読本とかか(それは重い)。

2008/06/17

恋というのは欲しているというもので、愛というのは与えるものである。

ここのブログは、タイトルにもあるようにアマンスな話題に特化しなければいけないという使命がある。アーメンスな話題ばかりではないかという指摘は的を射ているかもしれない、それもタイトルに含まれるので許容されたい。

第1行に書いた内容は、すくなくとも後半は誤りである。
後半が誤りであると言うことは、前半は当たっているというわけであるが、そういうことはあらためて人に言われなくても分かることである。
愛は与えるがゆえに豊かなのだ。したがって愛は本質的に高邁なものなのである。強いられてやむをえずの高邁ではないのだ。人間の精神の最も高い部分から是認されなければ、愛は生まれえないものなのである。(アラン『情念論』旧版p47)


欲しているとは何か。何を欲しているか。本当に定冠詞の何かを欲しているのか?
ただ愛したいだけというのも、それを欲しているだけでは高邁でないのである。

さみしいときにキスしてくれるだけでよいのに。
そう思っているのは誰なのだろうか。

キルケゴール続き

キルケゴールかキェルケゴールか、というのははっきりして欲しいけれど、Kierkeなので、キェルケのほうがより近いのかもしれない。もっとも、ゴールのほうは正しい音と全然違うじゃないか、というのは棚上げなのだった。

あらゆるもののうちで最も美しく最も愛らしい女性の青春でさえも、絶望でしかない、幸運の賜物以外のものではない。

とか言っていますが、まあそれは置くとして……


絶望しているのか絶望していないのかというのが単純ではないようで。なかなか深いものがある。
ボク絶望していますーと言っているから絶望しているとは言えないのである。そりゃそうだ。
ただ、逆もあるようで。一見普通なんだけど、それが絶望だったりする。いったい絶望とは何か。


とにかく、絶望することができるということは無限の優越である。──とキルケゴールは言う。

2008/06/16

どう?

どうしたいのか。
あるいは、何がしたいのかと考えてみる。
嘘とか。
あるいは、本質的でない部分。


ただ寂しいだけというのは、たぶん正しい。
答はたぶん単純である。

感謝

思えば、もちろん、愛があったし、今もある愛に、感謝すべきなのである。

愛さなければいけないのは、いつも自分である。

矮小

Amens(無分別者)なんていうタイトルにしているからといって、中身までそうならなくても良いのに、そうなっているのは題名のせいということにしておくと幸せだろうか。

何か書き始めると、愚痴っぽくなるような気もする。読む人の迷惑というのを考えるべきだと思う。思うなら書くなという指摘は正しい。こうなると、ぐるぐると自己励起的に悪化しそうである。悪あがきと言う。

困ったやつである。
自分で言っていれば世話はない。
穴でも掘ってそこに言うべきなのだろう。次にブログをつくるときは、タイトルを穴にしたら良いのかもしれない。


それにしても、本当に、どうしたものだろうか。
どうしたものだろうかというか、どうにかしないといけない。

2008/06/15

絶望とは。

絶望。
こういうときに当家の本棚はそれらしい本があったりする。
絶望といえば、キェルケゴールだ。その著書「死に至る病」によれば、「死に至る病とは絶望のことである」とか「絶望とは死に至る病である」とか書かれている。誤解がないように書いておくが、絶望によって死んでしまうということではない。それどころか、断じて死ぬことはない、とも言っている。
ちょっと読んでみよう。

有名な「自己とは自己自身に関係するところの関係である」もこの著書『死に至る病』に書かれている。
分かったようで分からないような、なんだかすごいぞ、みたいな定義である。
関係するところの関係って何だろうか。
10代、あるいは20代のうちに読んだら、面白いかもしれない。

トーマス・マンを読む。

「トニオ・クレーゲル」
これはおもしろい。
けれど彼女は絶対に来はしなかった。そういうことはこの世では起こらぬのである。全く昔と同じことだった、そうして彼は昔と同じように幸福だった。

このあと、その理由を明らかにする一節があるのだが、そう言いきってしまえば、もうそれ以上の反論は出てこないのである。
たかだか恋で、言わば妄想である。
苦悩である。狡猾である。泣くしかない。

ふたつの世界のあいだに立つ苦悩。自分をたいしたものじゃない、と言う詩人。

幸福だったのである。
なぜなら……と続く。続く部分は引用しないことにする。


幸福とは何だ。幸福であるなら、何に苦悩しているというのか。

2008/06/14

電子辞書と読書

電子辞書の内容に間違いがあったということで、修理に引き取られていく。紙の辞書でも誤植や誤記はあるが重版の際に直されたり、もうそのままで直されなかったりだから、まあそういうものだ。
本当に調べるならば、複数の辞書に違う方向から当たるのがよいのだろうけれど。

大人の(男の?)趣味とか言うとカメラとかクルマとか酒とかだろうか。まあ、男に限るわけでもないが、自分が(たぶん)男なので、という意味。
それ系のアニメとかも、もう今では一般的かもしれない。
語学というのは、まあ普通かもしれない。英会話とか。まあその他。
ヘブライ語だって、一部のキリスト教会などの勉強会みたいなところでは普通にやられている。普通というのは一般向けに、という意味で。

哲学はどうだろうか。まあ、趣味ではないのかもしれないけれど。
数学の方が趣味にしている人は多いかもしれない。とも思う。

2008/06/13

目的

ブログを書く理由というか、意味のようなものはあまり深く追究してはいけないというか、触れてはいけないことのようで。まあ、書いてしまえばそれでよし、なのか。それなら書くことがどんどん出てくるのかというと、そういうわけでもないらしい。
いくつかのパターンを用意しておいて、それを使えば簡単だろうか。

2008/06/11

本屋

本屋に寄って帰る小さな幸せ。


TVで見たハチクロの中に出てきた言葉を思い出す。
それを否定して、あるいは肯定して、さらに超越することは可能か。
それは誰のためか。
あるいは自分以外のためであることがこの世にかつて今も未来にあるのか。

2008/06/10

傾向と対策

既存のブログ(açamiBlog)と違う内容にしているつもりだが、どうだろう。大差ないかも、とか聞こえそうである(幻聴ではない)
さて。
何かのコトについて書くのはけっこう大変。アウトプットにしているつもりが、インプットの公開ということになってしまったりする。
いや、いったい最初何を書くつもりだったのだろうか。──たぶん深く考えていない。

2008/06/09

雨時々広辞苑

広辞苑第6版を買った。買ったのは電子辞書の追加コンテンツ。第5版が入っているけれど、古いから追加。
広辞苑を最初に買ったのは第3版だった。手元に実物がないのでいつ買ったのかはわからない。20年くらい前だろうか。たぶん、小説を書くために買ったのだ。でも、必ず広辞苑を引いていたわけではなく、普通は岩波の国語辞典を使っていて、意味の気になる単語だけ広辞苑で確認していた。

マタイ書くらいは読んでおけ、と言われそうで、まったくもってその通り。でも、1コリの「山を動かす〜」のところは、以前に「愛がどうの」という話題で引用しているのを思い出した。それで覚えていないというのは駄目駄目である。

某スタンダールの新訳がこき下ろされている。翻訳が悪いというわけではなくて(悪い部分もあるらしいけれど)日本語がおかしいとか、ごっそり抜けているとか、そういう翻訳以前の部分が問題みたいだ。悪い訳だと言われると読んでみたくなるけれど、読むなら既刊の訳書のほうだろうか。ちなみに原文はWikipediaからリンクされている。


少しカゼのような気も。
そういうときは寂しいのだった。
たとえば、彼女が欲しいのねという詩?の一節があったが、これはどういう意味なのだろう。この彼女が定冠詞か不定冠詞か、というようなところは些末な問題だと思うが、欲するというからには何かを得るんだろうか。
寂しいというのは欠落部分があるというか充足するべき隙間があるということか。
人間の生物的制約は、寂しい。
たとえば、それは僕には関係ないはずの部分なのだが、それによって寂しい。
関係ないはずの部分の補填は、常に純粋な愛に依っている。
いつもそれを忘れている。

2008/06/07

今さら現象学

現象学というのはよく分からない言葉で、哲学じゃないのかと思う。哲学というのは西周(にしあまね)の訳に依っているというのは哲学の最初の講義でかならず聴く内容だろうか。ギリシャ語のフィロソフィアからきているわけだから、愛知と訳してくれれば良かったと思う。言わば愛知学だ。


zumSem
なんとブログが始まっているのではないですか。ブリリアントですよ。



ヘブライ語をまたやりはじめようかと考えている。テキストは持ってきていないんで思っているだけ。ヘブライ語というのは文字で書くときに母音を(ほとんど)書かない。というか、母音の文字がない(のかな)。日本でも子ども向けの本にはすべてルビが入っているが、旧約聖書を見ると、母音記号というのが入っていて、読み間違えることがないようになっている。まあでも、KUUKIYOMEがKYでしたっけ、そこまで省略してもどうにかなるんだから母音が無くたってお茶の子さいさいだと言われそうだ。

それよりも仏検とかの方がよいのでは? まあ、そうか。




『欲望のあいまいな対象』という映画があるらしい。
僕には合わないんじゃないかと思うけれど、合わないとか言われると、ちょっと見てみたい。映画というものは時期を逃すと入手困難である。ていうかまあ、スクリーンで見るのが映画かもしれないけれど。

2008/06/06

全然足りない

フッサールの「デカルト的省察」は買ってあるようで買ってないと思ったらやっぱり買ってなかった。デカルトの「省察」は買ってあるけれど、ちょっと違う。フッサールと言えば「イデーン」だが、そっちは買ってある。置いてあるだけでは駄目なので、まあ順番に片付けていきたい。──と思う。
定番という本は岩波文庫やちくま文庫に入っている。入ってない本は全集を読むことになる。分売不可でも大きな書店では買えたり買えなかったり。インターネットで古書店の在庫を検索できるようになったのは喜ばしいが、入手不可能な本は存在する。──存在すると言っても存在しないわけでややこしや。

真面目に更新

眠られぬ夜のためにのために(6月3日)にはコリント人への第一の手紙13の2からの引用が含まれていた。「山を移す」信仰というものだが、なんだそれは?というわけで聖書の注釈にあたると、マルコ福音書11-22、マタイ福音書17−20でイエスが、信仰があれば山に動けと言い動かすことができるという意味のことを言っているのを指している、のだった。なるほど。

何をしようかというのは、まだ考え中。何もしないという選択もある。
10年前何をしていたのか思い出せない。小説も書いていないし、森博嗣ミステリも──10年前は微妙だけれど、逆に森ミステリなどに手を出す前はと言ってもよい──読んでない生活だった。11年前からサイトをやっているらしいので、ううむ、まああまり記憶に残らない生活をしていたらしい。

2008/06/05

悩みのない人

そういう人はいないというか、誰でも悩みのひとつやふたつくらい抱えているわい、というのがたぶん本当だと思う。現在の生活が充足していても、まあそれがいつまでも続くという保証はないわけで。

悩むというのは、考えるにニヤリイコールなのだろうか。
何もなしに生きていることは人間らしいと言えるのか否か。つまり、考えないことが人間らしくないのではないか。

まあこの辺りハイデガーを読まないといけないようで、いよいよ存在と時間に手をつける時だろうか。
そういえば、ヤスパースも一部しか読んでいない。ヤスパースの哲学は具体的な事柄について論じているので役に立ちそうだが、哲学なので分かりやすいかどうかは何とも言えない。その点はアランのプロポは具体的で分かりやすい。まあ、哲学の勉強としてはどうなのかという点もあるけれど、哲学の勉強することにあんまり意味はない。自ら哲学するべきなのである。

ガソリンが高いらしい。
石油が高いのか。
経済の勉強は全くしたことがないししたくもないけれど、値段が高くても売れるから上がるんだろう。中国が輸出から輸入国に転じたり、インドで安い車が販売されたり──自動車がどの程度の割合で石油を使用しているのか知らないけれど──石油に変わるエネルギー源はなにかないのだろうか。
ていうか、石油というのは一説では古代の植物が元になって地中で変成した物だとか言われていて、だとすれば、それは太陽エネルギーの貯金のようなものである。バイオ燃料とかは貯金しないで使っちゃおうということか。
いずれにしてももともとは太陽エネルギーしかないわけなのだけれど。
やっぱり、ちょっと人口減らないとまずいのね、というか、今の人口で足りないとか言っていたらこの先どうするのかってちょっとかなり問題なんじゃないだろうか。見て見ぬふりで、誰もそう言う(何十年も)先のことは考えない考えない。

ガソリンと言えば車、デートに車って安易だったけれど、まあそういう定番だったような。今はそういう時代ではないのか。データはないけれど。

2008/06/04

要求

安らいで眠りたい。
(※安らかに眠るではない。※※不眠症なわけではない)

それがなかなかかないませんね。
高すぎる望みなのでしょう。きっと。

請い

恋というのも、非常に普通で、ほとんど思考というのはもうカタログに載っているようなものである。やることは単純で、あんまりバリエーションがない。バリエーションはないけれど、恋について小説に書く、あるいは恋するのは条件さえ整えば難しいことではない気もする。
べつにそんなに好きじゃない。
好きかどうかは問題じゃない。
その条件は十分条件ではない。
愛は無造作にその辺に転がっていたりして、気をつけていない踏んづけでしまっていたりする。あ、君の愛ここにあったの?
そんなとき僕の愛などというのは一生懸命砂でこしらえていてこしらえているんだけれどあんまり格好良く形にならないというかほとんど崩れていて、愛なのか何のかさっぱり解らない。

2008/06/03

へたれ

へたれている記事などは誰も読みたくないんじゃないかと思う。読むのは大丈夫だとして、多分あんまり読んでも楽しくない。楽しいものだけ書くというのはそれはそれで余分なフィルターを通ることになるのだが、果たしてどちらがよいのであろうか。

ていうか、へたれているのか? と言うと、そうかもしれない。凹んでいるのではなくてへたれている、へたれってなんだよ説明してくれよ。という要望にはお応えできないので許してください。単純じゃないので、ちょっと説明ができないのです。
理性的にはまったくなにもへたれる理由はなくて、場合によっては嬉しいとさえ言えるんじゃないかと思う。じゃあ、なんでへたれなのか。まあ、中也のように言うなら、野望が紛糾しているのだろう、か。
まあ、へたれる余裕があるというか出てきたのね。ふにゅ。
とうわけで、何か新しいことをしないと──あ、まあ新しくなくても良いわけだけれど──いけないと思う今。

少し前は、小説を書いていたが、もう全然書いてない。ペソアみたいに断章を書こうかしら。いやそれは真似であるし、そもそも書けないのではないか。その前に断章を読め、と言われる。読めと言われるともう本がいっぱいあるので、これを読んでもばちは当たらない。
じゃあ、読もうかー。

2008/06/02

雨の所為じゃない

雨。梅雨入り。
寂しくて泣いていたのはいつだろうとか考えてみても、寂しいから泣いていたというような記憶はない。幸福なのだろう。阿呆みたいな話であるが、なんとな長く生きているのだろうとか思う。
幸せだった。か。
幸せ、というか、自分勝手だろうか、早く言えば。我が儘と言えば近いだろうか。
ただまあ、少し寂しい。
ひとり。
ひとりが嫌だというわけではない。本当だろうか。
多分きっと本当。だから我が儘なのである。

ぼけっと

リスボン物語のDVDを見る。二回見るほど面白いのか、というと、まあそうでもないかもしれないが、派手なシーンは出てこないので見ていて疲れないのでちょうどいいのね。ヴィム・ヴェンダースの作品、他にもあるのだろうか、適当な映画が。

泉由良さんの小説の仏訳第二弾は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。とりあえず、最後まで訳出した。訳を見直して、この小説の特異な部分をどうするか考えないといけない。──というか既に考えてはいるのだけれど、うまくいくのかどうかはやってみないとなんともかんとも。しかし、こんな下手くそな──いや下手ならまだしもそのレベルまで達していない訳を公開して、原作もこんな意味不明な文章だと思われていたらどうしよう。どうしようと思うなら止めておけばよいのかもしれない。こういうのを矛盾という。矛盾というより無茶苦茶だ。

ビールを飲みながら、やさぐれている。やさぐれているというより、くだを巻いている。やさぐれるという語は広辞苑にはないようで、新しい広辞苑を買わなくてはいけないかもしれない。というか、欲しい。最新の辞書が無いと落ち着かないのである。あるいは、拗ねているのか。拗ねているのではなくて、幼いだけだったりするかも。
本家ブログ「問題か野望か」でもとりあげた中也の言葉、『問題は、紛糾してはゐない。野望が、紛糾してゐる。』(朝見ブログ:「あった」)というのがオリジナル。紛糾しているのは野望であるというのは、まあ、するどい指摘だと思う。つまり、なんというか、できれば自分に有利なように進んで欲しいわけで、それでは全く愛ではない。

愛というのは選択である。
愛することも愛さないことも選択できる時に、愛を選ぶことに、そこに愛の価値がある。
そういう小説はないか? 誰かそういうことを言っていないか。ここ数年来、それを探している。
例えば、好きというのは、恋と言っても良いが、選択などというものはないのであって、ただ、どれだけ欲しいかという、あるいは自分だけ嬉しい状態になるかというだけである。──では、好きより、好きでない方が善いのか。好きじゃない。
あの日、愛はなかったのか。愛を選択したのは誰だったのか。今、愛しているの主語は誰なのか。
そんなことさえもわからなかったのか。
が、それが悪いわけじゃない。

夜も更け。ぼけっとしながら、そんなことを考えている。

2008/06/01

見てねと誰が言うのか

見てねと書いておいて、全然更新されないのはどういうことなのだとお叱りを受けそうですが、実際にお叱りを受けないところをみると、誰も期待していないのか、誰も見てないのかいずれかでしょう。

こちらに誘導したのは、左側に他のブログの更新状況が表示されるからであって、別にここが毎日更新されるというわけではないので、念のため書いておきます。まあ、だからといってあたらしくリンクしておいて更新がないのは良いということはないのですが……

まあ、たまに更新されるトップページと考えれば、あんまり更新しなくても大丈夫かもしれません。そうだ、そういうことにしましょう。

8社共同復刊から、3冊を購入しました。リンクは本棚もしくはブクログから。「量子力学の哲学(上)(下)」「ヒルティ伝」の3冊です。積ん読が増えただけという気もしますが。前者は哲学と書いてありますが、哲学の本ではなくて量子力学の本です。哲学と題されているのは、考え方のアドバイスのようなものを含むからでしょう。通常の教科書が淀まない証明のような書き方になっているのとは異なるわけです。でも難しいのよ。


読書は北森鴻のミステリとか、木村敏の現象学など。古典というか、シェイクスピアとかもう何冊か読もうか、とか思うところ。フランス語の勉強は進んでいませんが、どうしたものでしょう。