2009/09/21



よく知られたことですが、デジタルカメラでは、赤外線を見ることができます。お手元に赤外線リモコンがあれば試してみましょう。

2009/08/24

恋愛、虚構、差、位相

恋愛が難解であるとすれば、原因は一般化が不可能であるという本質である。別に恋愛に限らないが、1人称複数で行うことには、過去の経験が役に立たない。だから、失敗しても普通なのである。ちょっとでも上手くいったら、それはそれで奇跡である。毎日練習しているバッターだって、3割以下しか球に当たらないのだ。

恋する者は愚か者、というのは、拙Bloggerのブログのタイトルにかかげてある。ヴェルギリウス/牧歌の一節である。
ところで、欧州語の例えば、aimer、愛するという語は「好き」と同じである。日本語で、好きは動詞ではないというところは、なかなか本質的なのではないか。好きになろうとして、好きになるわけではない。ぼくたちは、好き、か、なんでもない、かを選択しているわけではない。
だから、好きというのは、理由にならないのだが、まずは、好きというのを理由にするしかないのである。だから、それに替わることを見いだすことがきっと必要だ。
順番に考えていけば、分かることである。
そこには、何もないのである。

2009/07/19

AMANS, AMENS

移動記念日というのは、面白いと思う今日である。移動祝祭日とかの移動である。mobileだ。
面白い方が、面白くないよりは良い。
そういうことである。

2009/06/09

Le solitaire

寂しいという日本語は、何を形容しているのだろうか。
英語ではLonelyらしいが、仏語だとsolitaireになる。

日本語と微妙に意味が違うような気がする。

2009/06/01

夏になる前

送信者 いろいろ9

アランの著作集第1巻のあとがきに、訳者の中村雄二郎が書いている。
「哲学する」ということが「よく生きる」ということの同義語であったことを、長い間人々は忘れていた。多くの場合、「哲学」は観念や理論のおばけとなり、「よく生きる知恵」はそこからすべり落ちた。

必要なのは哲学の勉強でなく、哲学することである。

ペソアの詩を読むと、それが自分の書いたもののように感じられる、とそれはもうペソアウイルスに患ったと言うことらしい。

あらゆるラヴレターは
滑稽なのだ
でなければ ラヴレターではない
滑稽なのだ

おれもラブレターを書いていた時期がある
みんなと同じように
滑稽なのだ
(ペソア詩集/澤田直 訳)

冒頭を引用した。全部読まないと真意は伝わらないので、部分引用は良くないかもしれない。


まだ暑いというほどではない。
もうすぐ夏である。

Funny Face

邦題は『パリの恋人』(1957年)
なんというか、理不尽なロマンス(もちろん善い意味で)。まあ、たいていロマンスというのは、論理的不整合の連続であることよ。
ミュージカル調なのは、ミュージカル映画だからだ。


ところで、ヘップバーンと言えば、『ローマの休日』だが、最も好きな映画の一つが、これである(パリの恋人じゃなくて、ローマの休日の方)。他には、『リスボン物語』。
共通点を考えてみると、ベタなギャグがふんだんに入っているところ。ローマの休日の、階段とか枕とか、真実の口とか。

で、『パリの恋人』のジョークは何だろうか。
あ、リスボン物語との共通点は車。
ISETTAと言う車。リスボン物語と違って、パリの恋人では、動いている。
ハイブリッドカーでなくて、これにすればいいのではないか。何十年も修理して乗れる車にすれば、良いのに。
イセッタ プラネット
今でも現役なのだ。

2009/05/31

引き続きジョーズ

というか、007。ジョーズはシリーズの前作にも登場した殺し屋の名前。今作は彼の活躍にも注目なのであるー。

『ムーンレイカー(1979年)』
ボンドがシャトルで宇宙に行くという作品。スペースシャトルが初の打ち上げをする2年前の公開でした。

驚愕なのは、スペースシャトルがまだ飛んでいるということですが、そのシャトルもあと1年くらいで退役。次の往復型のシャトルは計画されず、結局普通のロケットに戻ってしまうという、当時から見たら逆の方向に驚きの未来だと思います。

宇宙ステーションが実際にあるのは、まあ、映画が実現したと言えるでしょうか。

映画の中では超音速旅客機コンコルドも出てきますが、これも今はもうないですね。
そうそう。ボンドが日本製のデジタル時計をはめています。そういえば、液晶というのが出たのはこの頃でしょうか。なつかしや。

2009/05/25

止揚

根源的な二重性の押さえ込み。

自己は本来自己とは異質の存在性格をもつ身体を「所有」することにおいてしか、自己として現実に「存在」することができない(p169:『自分ということ』木村敏)

単純明快007

007シリーズ『私を愛したスパイ』

ボンドの秘密兵器は面白い。ツッコミどころ満載。時計の通信機など、笑える。
判り易い映画も、気楽に見れて良いと思う。

2009/05/18

レベッカ

ヒッチコック「レベッカ」

怖い。か?
話の展開はおもしろいけれど、言われているような怖さは、感じない。感じないのはすれているからか。

2009/05/17

もう一段階上に




なかなか泣ける少女漫画のアニメの挿入歌。少年向けでこういう悲しい方へのダイナミックレンジが大きい漫画は無い。

amantes, amentes なタイトルを掲げている本ブログであるが、DVDを観た話ばかり書いている気もする。
omnia vincit Amor. はウェルギリウスである。2000年前の人である。
楽しいことである。

2009/05/13

このブログはおもしろい。

このブログ(って、つまり、このomnis amans amensのこと)の過去ログは、右下のところから、該当年月をクリックすると読める。ちょっと面倒だが。
昔の方がおもしろいような気がする。
まあ、初心を忘れてしまうのである。収束というか、拡散。

反省すべし。

2009/05/10

冷凍保存

ヤスパースの言葉が思い出せずに、気持ち悪い。
Wikiに昔書いて置いていたが、ウェブサーバーをさくらに移った時に止めたような気がする。WikiのフォルダはそのままMacにダウンロードして保存してあるのだが、PHPの環境+Apacheがないと中身が見えない。Apacheは動いているはずだが、PHPが動かない。えーと、ごにょごにょして、動くようになった。

『人間は、己が出会う者に対して、彼が何をすべきかを教えることはできず、ただ彼が何を欲し、また彼が何であるかを、彼と共に見いだすことができるにすぎない』(2005-2-17)(創文社/ヤスパース『哲学I 哲学的世界定位』緒言ixより)


というのがそれ。ただ、引用箇所をメモするのを忘れて巻数やページが不明。(判明したので追記した)

ちなみに、このWikiを見ていたら、北海道旅行記があるではないか。書いたのをすっかり忘れていた。公開時に見たひとはラッキーである(何故に)
まあ今さら再アップはしない。
ちなみにこの旅行の時に乗った高速の青函フェリーは今は無い。

ふたたびWW

今週もヴィム・ヴェンダース
『家族のいる風景 (原題:Don't Come Knocking) 』

公開は2005年と新しい作品。
この原題は、どういう意味か謎なのだが、まあ、邦題もどうにかならないものかと思う。適当なことを言うのは良くないかもしれないが、英語で「ノックしに来るな」というのは、「会いたくないぞ」の婉曲表現みたいなものなのだろうか。まあ、タイトルについては、言及しない方が良さそう。

この映画を観ると、こういう映画というのを作れたら楽しいだろうな、と思う。
話としては、判り易いし、日常的な、それこそ風景である。それでは何も感じるものがないか、と言えば、やはりそうではなくて、あとからじわりと効いてくるものがある。

日常的な、平坦な、小説的な味付けがない。そういう面白さが、観たい/読みたい。そして、書きたいと思うのだが、書くのはまあ、かなり困難な夢物語かもしれない。

2009/05/04

Wim Wenders

『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)
リスボン物語以来、ヴィム・ヴェンダースのファンだったりするのですが、なかなかレンタルにそろっていなくて、全然見ていません。ハメットとブエナビスタソシアルクラブくらい。

生きることとか、考えてしまいますね。
なんというか、てきとうに生きている。のほほんというか、ちゃらーん。
でも、就職口無くて、路上生活者の方を見かけたりしますと、明日の我が身かと恐怖してしまいますね。
嫌でも選択を迫られるわけです。頽落しているわけにはいかない。ヤスパース言うところの限界状況ってところでしょうか。仮性かもしれないけれど。

まあ、タンパク質が腐らないで動いているというのは、それだけで奇跡ですからね。ま、そこが問題の元なのか、違うのか。分離できないんだから意味ないが。
(あれ?どうして、ですます調?)

2009/04/27

パンズ・ラビリンス

アカデミーなんたら賞というのを受けている、評価が高い映画。スターウォーズの後に見ると、ちょっと疲れる。
まんまと二重化の罠にはまってしまうわけである。
内戦の軍事抑圧化の現実と、おとぎ話の世界。映画であるので、おとぎ話の部分が映像化できるわけなのだが、統一的な解釈をしようとすると、虚実に分裂をしてしまうのである。

単純にこいつは良いとか、これは駄目ですね。と言えない──つまり考えなければならない、ということは、すなわち、アカデミーなんたら賞という評価される良い映画ということなのだろう。
それにしても、なんというか、なんとも納得できないのは、主人公の少女オフィリアが単純な掟をやぶるところである。まあ、実際はそういういい加減のところがあるものであるから、リアリズムということなのかもしれない。だいたいは、現実の方が、茶番のような、しょうもないことの連続なのであるし、もちろんそれでよいのである。←と書いてから、解説音声(ディレクタリーコメント)を聞いたら、もっと単純な理由だった。そして、誤解したのは、その単純な理由を説明するシーンがカットされたからだったのである。説明無しでも分かると思われたようだが、気がつかないのは私がぼけなのである。(まあ、監督もカットしない方が良かったと言っているが)

エピソードVI

スター・ウォーズ エピソードVI ジェダイの帰還

シリーズ3作目。旧三部作というか、最後の話。
初回公開時は「ジェダイの復讐」という邦題だったが、2004年のDVD発売時に変更された。原題はReturn of the Jedi

前回の続編というか、完結編という印象の強い作品。まあ、そのままだ。

6部作と見れば、確かに壮大な作品。子どもに判り易い話でもある。

ところで、シリーズを通して、C3POの出番が多い割に役に立っていないのが面白いと思う。

2009/04/21

エピソードIV,V

先週の予告通り、旧三部作のうち、シリーズ第一作と二作「帝国の逆襲」を観た。エピソードIVとVにあたる。
テレビで放映されたのを観ているはずで、とくに第一作は複数回観ているのだが、最初の30分くらいの部分を全く覚えていない。変な宇宙人とか出てきて怖かったからか、面白くなかったからか、どちらかだろうか。
実は、エピソードVの方も最初の30分くらいは全く覚えていない。ひょっとするこちらは、放映開始部分を見逃したのかもしれない。

さすがに20年の開きがあるので、技術の差は目立つ。画面に出てくる、今ではショボイようなコンピュータとかは気にならないのだが、人間が着ぐるみに入ることができない動物の動きとかがいまいちおかしいところなどに現れている。CGが無いから、仕方がないのだが。

2009/04/13

新三部作

スター・ウオーズ 
エピソード I,II,III

三作続けて観たわけでなく、ヒッチコックの裏?で3週にわたって観ていたのだった。

映画館で観たことはなくて、少し(かなり)前に、テレビでエピソードI,IIを観たことがあった。
エピソードIIIは初めて今回観た。めでたく旧三部作につながることになる。といいうわけで、まあ、旧三部作も観るしかない。旧三部作は、テレビで観ているはずなのだが、どんな話かあんまり覚えていない。

どうでも良いことだが、このようなSF映画に出てくる空飛ぶ車というのは、今では滑稽であるように感じる。

2009/04/10

結婚

学院標語と結婚の条件
内田樹氏のブログ。なかなか面白い。
論理的に考えれば、相手は誰でも良いのである。

2009/04/08

流るる桜


四条へ行く。高瀬川の桜、皆さん撮っておられる。皆さんが撮っておられるものを撮るまでもない。
というわけで、写真は近所の高野川。花は散り始め。橋から川面を覗くと花びらが流れてくる。

2009/04/06

知りすぎていた男

ヒッチコック『知りすぎていた男』(1956年)
原題は The Man Who Knew Too Much
1934年の同タイトルの作品(邦題『暗殺者の家』)のリメイクである。

『暗殺者の家』のほうはちょっと消化不良気味な作品だと思われたが、なるほどこっちは完成度が高い。

旧作『暗殺者の家』でさえ公開時は絶賛され、ヒッチコックの名前を世に知らしめた作品だそうで、まあ、TVなど無かった時代なので、それを考慮しないと判断できないことは確かである。

そういうわけで、リメイク版 The Man Who Knew Too Muchについて。ヒッチコック作品らしいユーモアなシーンを挟んだ感じが、とても楽しい。シリアスなシーンは、まあ、慣れたものというところか。
DVDにはメイキングの特典が付いてきていたが、驚愕な種明かしが! なるほど、と感心させられる。


というわけで、現代でも通用するクオリティの「知りすぎていた男」だが、その上でよく考えてみると、「暗殺者の家」の異色さが浮かびあがっくる。作品としては、そっちが前衛的なんのではないか、と。荒削りなだけなのかもしれないが、話としては、リメイク版の方がおとなしいのではないだろうか。

「暗殺者の家」制作時にもっと予算があったら、さらに完成度はあがっていたかもしれない。

2009/03/30

知りすぎた奴

今週の映画は、ヒッチコックの『暗殺者の家』原題はThe Man Who Knew Too Much (1934 film)
訳せば「知りすぎた男」になる。それ、聞いたことある、と思ったのだが、邦題が「知りすぎた男」なのは、1956年のリメイク版だった。

ヒッチコックのイギリス時代の代表作らしい。
どの辺がヒッチコックかもうちょっとよく見ないと分からないというのが感想。
リメイクをしたかったヒッチコックの気持ちも分かるかもしれない。

1934年というのを考慮しないといけないというのでは、面白くないのだけれど、昭和9年なのである。昭和9年にこれを見たら、たしかに驚く。
──んじゃないかと思う。

2009/03/19

アクサン再び

向こう(主体的に覚える)に書いたが、覚えたつもりが忘れている。と言うわけでもう一度。

àèù
é
右下がりが、アクサン・グラーヴ(accent grave)
右上がりが、アクサン・テギュ(accent aigu)

記号の名前を覚えても意味がない、というかそんな必要はない。と言うことは前に書いた。
仏語の場合は実際aとuにはエギュはつかないので、あまり出てこないèに気をつければよいのである。
é と è は発音が違うのだから、フランス人は音で覚えているのだろうか。
で、どうやって、この名称を覚えるのか。
aiguにはaとuが入っているので、aとuにつかないという分かりにくい方法くらいしか思いつかない。
éはエと読むので、aigu=エギュのほうがまだ良いだろうか。
どうにもすっきりした覚え方が思いつかない。思いつかないうえに、覚えられない。

2009/03/18

不一致

Which?

現象学的に考えれば、既に何らかの先入見があり、本質が見えていないということである。
エポケーというのは、まず空の状態に自分を置くことである。
都合のよい情報だけを求めているというのは、既にバイアスがかかっているということで、それでは、情報を集める意味がない。

果たして本質があるのか、あるとすれば、誰が判断するのかという問題は発生しないのであろうか。

2009/03/16

適当に見ても

ゴダールのDVDを借りてきた。邦題は『ゴダールの決別』(原題 HELAS POUR MOI)
ながらで観ていてもまったくわからない。
真剣に見ても分からないかもしれない。

ちなみに、英語の題名は Alas for me だ。つまり、そのままだ。

2009/03/10

船旅


フェリー業界が苦境だとか。
船旅というのは、なかなか楽しい。夜行列車も一部には人気なようだけれど、何か、ブームみたいものはできないだろうか。
値段は人間だけなら高くはないけれど、旅程の時間がかかるのがネックだろうか。

お風呂の窓から水面が近くに見えていたりして、なかなか楽しい。
船の窓には波しぶきが塩の結晶になっていたりする。
そして海が広い。

2009/03/09

ヒッチコックの裏窓

『裏窓』REAR WINDOW
なるほど、面白い。

2009/03/06

書いていない映画

鑑賞したが書いていない映画(DVD)がある。ネタに困ったときに書こうと思って取っておいたわけではない。
ヒッチコック『ロープ』
レンタルしていないので、買った。廉価版500円。安いけど、つまり、著作権が切れているので、できるのである。

意外にも、今までヒッチコックの映画は、全然見ていない。「鳥」はテレビでやったのを2回くらい見た気がする。それだけである。たぶん。

『ロープ』はカット割りがされていない映画だそうな。なるほど、カメラの位置(方向?)は変わるが、ずっと繋がっている。(前の方と終わりの方で切れているが、途中の主たる場面になっている部屋のなかでは1カットで繋がっている。)
実は、最近読んだ「時間」の中でこの映画が言及されていたのだ。カットが入っていないということは観客と映画の中は同じ時間だけ経過しているわけである。

そう思ってみると、なかなか、変な感じである。自分の時間感覚が喪失しているようだ。

ヒッチコック面白いのだが、どうも好きではない。しかし、好きではないイコール観たくない、ではないのだ。
そういう年頃かもしれない。

2009/03/02

DVD版スカイ・クロラ

レンタルしてきた。
原作を読んでいないと分からないという評価が、上映時のブログなどでは散見されたが、原作読んでも分からない話なので、こんなものだ、と思う。
というより、映画ではヒントが出てしまっていると思うが、それがこの映画の謎解き、というか、目的ではないのだと思う。
いったい何か。いや、そんなものは無いのである。最初から。
大人にならないキルドレ。

放って措いても、大人になって老いていくのだが、中身はいつの間にか成長を止めてしまう。僕たちはキルドレと異なるのだ。

2009/02/27

テンプレート変更

テンプレート配布サイトのテンプレートを使っていたが、テンプレート配布サイトのテンプレートが使っている画像を置いているサービスが止まってしまって、画像が表示されなくなってしまった。
というわけで、純正のテンプレートに変更。
まあ、画像なども自サイト内に置けば、そのようなトラブルは無くなるのだろうけれど。

等比級数的

幾何級数的に〜と誰かが言っていた。
幾何級数とは何か。
幾何級数というのは、すなわち等比級数のことであるらしい。
等比級数、というか、等比数列の和はrのn乗の形をしているわけで、まあ、ざっくり言えば、指数関数的と同じ──というか指数関数そのものである。
指数関数的の反対は対数関数的だろうか。
対数関数的と言ってもたぶん通じない。
算術級数的が、反対語らしい。算術級数とはつまり等差級数なのだ。
等差級数だったら、一次関数的だから、対数関数よりは増加率が多いのではないかと思うが、直線的であることに意味があるのかもしれない。
ねずみ算式に、とか雪だるま式という表現もあるが、ねずみ算は等比数列であるので、幾何級数的と同じである。ユキダルマシキを数式に置くことができれば、比較ができて面白そうだ。

単位時間当たりユキダマの直径が一定量増加するなら、その体積は3次関数である。ユキダマの転がる速度が問題になる。速度一定なら、接地部分の線速度一定ならば、回転速度はおそくなっていくわけで、雪だるま式というイメージに合わない。雪だるまなんて最近作ったことがないので何とも言えないが、雪だるまはそれほど急激に成長しないということかもしれない。

一番の謎は、幾何級数ってなんで幾何なんだろうかということである。

2009/02/24

ソフィーの世界を持っている

うちのアパートの古紙置き場にペーパーバック版の「ソフィーの世界(上)(下)」が捨てられていた。思わず拾っていこうかしらと思ったけれど、よく考えたらハードカバー版を(実家から今の住まいへ)持ってきていたのだった。
これを読んだのは、とくに哲学に興味はなかった頃なのだ。

今読んだら、どう思うだろうか。
少しはツッコミを入れられるかもしれない。
でも、ぶ厚いのだ。
再読はしたいのだけれど……

2009/02/19

弱いものにつく

内田樹氏が、村上春樹氏のエルサレムでのスピーチについて書いている。

壁と卵(内田樹の研究室)

文学は論理では無いということか。
文学という部分は、「人間」と入れ替えても同じであろうか。

論理で何事も決めるのであれば、判断は簡単である。コンピュータ(機械)でも判断できる。
ハイデガーがナチスについたり、アインシュタインが核開発の必要性を提言していたり。
良かれと思って、である。後悔することになるとしても。

さっぱり分からない。わからないが、文学が存在する意味がそれなのかもしれない。

2009/02/18

少し寂しいくらいが

さだまさしの曲をよく聞いていて、彼のラジオ番組を聴いていた。本も読んでいた。
いわゆるファンだったのである。
それによって得られたことはいろいろあるが、得をしたことをひとつ挙げるとすれば、佐田玲子のアルバムを何枚か持っていること。
反対に残念なことは、白鳥座のアルバムを持っていないことである。CD化されていたはずだが、気がついて買おうとしたときには、入手不可能になっていた。
再版されないのは、解散しているためか、版権の問題があるのかもしれない。

で、表題のフレーズは、佐田玲子の「川」(アルバム「君を信じて」に収録)である。


『GOLDEN☆BEST/佐田玲子』というベスト盤は2004年発売で新品の入手も可能のようだ。
公式サイトもあるのだが、驚いたことに、たくさんのラジオを番組をやっていること。ラジオを聴くということはもうない(ラジオは持っているが)だろうけれど。
付言しておくと、ラジオ番組がまだあるということに驚いた。ラジオがあるのだから、番組があるのは当たり前。驚くべきは、そんなことを思う自分のことである。
毎週の土曜。東京の文化放送を(愛知で)聴いていたのははるか昔ということか。

2009/02/17

アンエンオン

仏語のアン・エン・オン
「ん」ではなくて(発音記号は母音の上に〜)の鼻母音なのであるが……
仏語というのは、英語と違って、スペルによって発音は規則的に決まるので、そういう面では楽ちんである。
an en というのは、アン[a〜]なのだが、ほとんどオンに聞こえる。
in とかは、エン[ε〜]なのだが、アンに聞こえる。
on は オンである。(分かりやすい)

イン。とか、エンというのは、無いということになる。仏語をやっていると仏語しか読まないので気がつかないが、仏語に出てこない「音」というのがある。すぐ気がつくのはハ行が言えないこと。hは読まないのだから。
チも発音できない。chはシになるので、駄目だ。

そのくせ、母音が12個(鼻母音を除いて)もあるのであるから、やっていられない。

2009/02/13

脱ブログ考

ブログを止めて、単純なWebページに回帰しようかと考え中である。
何故か。

  1. みんながブログ(日記形式)なので、違うことをしようという考え。
  2. 時事ネタなどがないので、日付順に並ぶことの意味がない。


というのは、表向きである。フロー型よりスタック型の方が、更新が減らせるのではないか。少ない更新でも、コンテンツが溜まっていくので、見た目で内容が多いように見えるのではないか、というよこしまな考えによっている──のかもしれない。

それを言うなら、ブログを止めれば良いのである。Webサイトだって、やめても良いではないか。
やめられないと言うならば、そこには理由があるはずである。

2009/02/12

名詞の性

小学校で英語をやるようで。全くお上も馬鹿な奴ばかりであると思う。
むしろ、日本語をやれと思うし、あるいは、他の言語だってやっても良いんじゃないかと思う。韓国語とか、ポルトガル語とかは身近じゃないだろうか。あるいは中国語。アラビア語も良いし、ヒンディ語だって美しそうだ。

という題目からそれた話は措いて置いて、性の話。名詞の性。
英語にはないけれど、たとえば、フランス語には名詞に男性名詞と女性名詞がある。
全く規則性が無くて、覚えるしかないのだが、覚えるしかないということなので、しかたがない。
実は、名詞の性の違いを知らずに覚えてしまっていることがある。
カフェオレというのがあるが、カフェ・オ・レ のレが牛乳のこと──laitである。
まえについているのが、オなのだが、これが、auで── à leの縮約形なのでわかりにくいが、このleが男性名詞に付く定冠詞である。だから、牛乳は男性名詞なのである。
アラカルトというのも聞いたことがある。
à la carte と書くわけで、carteが名詞でメニューのことなのだが、この「ラ」laが女性名詞に付く定冠詞なのである。

カフェ アラ・レとは誰も言わない。覚えてしまっているのである。

ルモンドという新聞がある。これも、le monde で、mondeという名詞「世界」なのだが、le が付くので、男性名詞なのである。
ラモンドじゃないのだ。

でも、あんまり出てこない名詞は、どうやって覚えるんだろう……フランス人に聞きたい。本当に覚えているのか?

2009/02/09

1985

愛を探していた。愛そうとしていた、ということかもしれない。しかし、探しているところにはそんなものはなかった。たとえば、優しいという動詞は、いくら製錬しても愛にはならない。
求められていたのは、愛ではない。そして、おそらく優しさでもない。

愛というものが何か。
それが分からずに探しているのだから、無理と言うよりも無謀である。
落ち着いて考えれば、分かることである。だが、それが分からなかったのは、そもそも、愛を探しているわけではなかった、ということではないか。

・・・続

2009/02/07

成さず

カントに言わせれば、成すべきであるがゆえに成しうる。ということになるであろう。

だいたいのところは、成さなくてもよいことを成しているのである。成すべきではないものを成していないだけは救われるのかもしれない。

何も成さないという選択が常にある。

時に、何かを成すよりも価値がある場合がある。

2009/02/06

高々

数学で出てくる高々(たかだか)という響きが好きだとふと思った。

無いだろうと思って、Wikipediaで調べてみたら予想に反して載っていた

そういえば、先日本屋で距離空間の本がふと目にとまったので、ちょっと立ち読みしてみた。とりあえず、距離空間をやっておけば、ちょっと威張れる(いや嘘だ)かもしれない。
──とか思って買いそうになったが、やめた。
距離空間と言えば、位相空間の部分集合という認識でよいのだと思われるが、位相のなんたら(忘れている)という文庫を買っていたはずだが、どうなったのだろうか。

2009/02/02

日本がどんどん危機に


結局、日本人は、もはや支払いができない──つまり職を失った人びとだが、〔失業〕保険(mutuelles)に頼った。今週、麻生総理は国会議員の前で「廃れて古くなった社会の方法」と強く批判した。危機が重大であると公然として認めた。彼は、1991年に一掃した、二つをできるだけ比較して考えるしかない。そのふたつ、すなわち、明治のとき、日本は近代化のために孤立から外へ出たこと、第二次大戦がどこで、そして負け、完全に復興をしたと……
Le Japon s'enfoncede plus en plus dans la crise  (Le Figaro)

LE FIGARO紙のブログの終わり部分を抜粋で。訳は私訳。

2009/02/01

仏作文床屋へ行く

「明日床屋へ行く」というのを仏作文してみた。
床屋は chez le coiffure または salon de coiffure 
chezというのは「の家」という前置詞だから、まあ日本語で言う「ん家」みたいな感じか。
明日、はdemain
まあこれは決まり。
行く、という動詞はaller

日本語では出てこないが、一人称の主語「私は」のJe が必要になる。
これだけの部品があれば作文できる。

動詞の時制が問題になるのだが、まず単純未来にしてみる。 allerの一人称の単純未来はirai allerというのはよく出てくる動詞なので、無茶苦茶な不規則動詞なのである。
J'irai chez le coiffeur demain. ジレ シェル クワフル ドゥマン

je が j'になっているのは、母音の省略エリズィオンである。アンシェヌマンとリエゾンというのもある。いつもどれがどれだか分からなくなる。
さあ、出来た。と思ったが、どうも気に入らない。
aller+不定詞 という、近い未来の用法がある。英語もbe going toというのがある気がする。

Je vais aller chez le coiffeur demain. ジュベザレ シェル クワフル ドゥマン

vaisは「ベ」でsは発音されないが、続く語が母音のときはsが発音されるようになる。これがリエゾン。
未来形よりも、こっちの方がよい気がする。床屋に行くのはほとんど決まっているからである。
作文は完成した。通じないことはないと思われるが、床屋というのが3語になっているのが少し気になる。

Je vais aller au coiffeur demain.
ググってみると、au でも良さそう。chezに代えて場所を表す前置詞 à を使う。à leは縮約形 au になる。 これでも通じるのだろう。

Je vais au coiffeur demain.
仏語は現在と近未来はあんまり区別されない。demainと付いているので、このように現在の時制にしても問題なさそうである。

VIDOCQ

映画『ヴィドック』
観た。(一週間前だが)
顔が鏡(の仮面)になった殺人者(錬金術師)を追う話。
映像がSFXなのだが、CG合成なのである。どうなのだろう。
それに比べると、TAXiの方は、曲芸乗り?のドライバーが実際に運転していたりする。まあ、あれを全部CGにしたら面白くないだろう。

で、ヴィドック。
このパターンの映画は2回目観るとオチが分かっているので面白くない──ということはなくて、何度も観られるというお得な人間が観ているのであるなあ、と思う。
映像全部記憶してしまうような人は──、まあ、そういう人はどんな映画も2回見ない、か。

2009/01/31

カセットテープ考

カセットテープの項目などを見ていると懐かしく思う。

カセットデッキは高級な物を持っていた。
高級なカセットデッキは、安いノーマルテープに良い音で録音することができる。
メタルテープとか、ハイポジションのテープでなくても、そこそこ良い音で録音できた。
──と書いているが、メタルテープというものが、どうも現在では製造されていないらしい。まったくもって無駄な情報である。
カセットテープの値段。昔はもっと高かった気がするが、幾らくらいだったかは覚えていない。「今」の10本700円とかいう価格帯ではなかったのではないかと思う。
まあ、忘れても問題はないことではある。

2009/01/28

昔話

その頃、カセットテープというものがあった。
買ってきたCDからカセットテープにダビングして、車の中で聴くのである。
古内東子とか上田知華を聴いていたような記憶があるが、それらをよく聴いていたというわけではない。音楽の記憶は、聴いている時間とは異なるものに相関がある。

僕たちは、プラナリアを探して、山の中をうろうろ探し回った。
それなりにきれいな川(というか沢)ならば、ある程度探せば、生息している場所に巡り会うと思われる。微妙なニュアンスだが、だいたい、いるいないという以前に、入って、いるかどうか確かめられそうな川(の場所)がなかなか見つからないのである。

2009/01/26

Ce n'est pas seulement de pain

Ce n'est pas seulement de pain que l'homme vivra, (Mt4,4){La TOB}
Man shall not live by bread alone, {RSV}

有名な聖書の言葉。仏語聖書は、いつもエルサレム聖書から引用しているが、今回はエキュメニカルなラ・トープから引用してみた。ちなみに、文は異なるが、意味が違うわけではない。
おまけで、英語聖書からも引用してみた。英語聖書というのは掃いて捨てるほどあって、どれが良いのかサッパリ分からない。

「人はパンのみで生きるのではない、」
──である。では、何によって生きるというのか。
(マタイ書では、神の口から出るすべての言葉によって、となっているのであるが、それが何かは追究しない。もっとも、これ自体が申命記(8,3)からの引用であるので、そっちを吟味すべきかもしれない)

で、だ。



人がパンのみで生きられるのなら、それはそれで幸福だったのかもしれない。


まあ、働いてパンを得て生きているわけであるが、それだけではやはり駄目なのである。では、パンが無くなっても良いのか? 
パンが無くても、手放せないものがある。それでは生きられないのではないかという矛盾。なるほどそうであるとするならば、生きるということは何であるのか。
自分で決めることである。

TAXi3

TAXi3を観た。前作は忍者が出てくるのだが、今回は雪山、というかサンタ。
比較すると、3の方が面白いと思う。どこを比較するかというのは説明できないのだが。
どうでもいいが、TAXi2を観たときの感想を書いていない。
書いていないといえば、ヴァージン・スーサイズもそうである。
まあ、そういうのを観た。ということは書いておく。

2009/01/16

Jaiku

Jaikuのアカウントを取ってみた
twitterみたいなもので、どこが違うのかまだよく分かっていない。

※招待制なので、招待希望の人は、メールアドレスを知らせてくだされば、招待します。
送信フォーム
上記リンクからサイトの送信フォームをご利用ください。

と書いたら、Googleがいくつかのサービスをうち切るというニュースが。Jaikuの開発も終了だそうな。

2009/01/10

ガザの話

戦争駄目だよねーというのは簡単であるが、そういう問題ではない。
──筈である。けれども、何も分かっていない。
こういうときは、やはり、専門家。高橋和夫氏の本でも読むべきであろう。

高橋氏のブログはこちら

2009/01/05

WASA

WASABI(2001年仏・日)
これもリュックベッソン。
場面が日本であるという点以外は、見どころは…… ジャン・レノとイロスエが出ているという以外は特に何もないような。
コメディというほどギャグもない。コメディではないのかもしれない。

で、お金は何処に行った?

2009/01/04

映画タクシー

『TAXi』
リュック・ベッソン。カーアクションと言うよりは、周りの車が衝突するのが特徴のような。トランスポーターと比較すると、その辺が差異か。カーアクション自体は、トランスポーターの方が秀逸だろうか。もっとも、制作年が古いので、仕方がないか。
TAXi2も借りてきて観ることにしよう。

2009/01/03

キャレンダ

a machine in which cloth or paper is pressed by rollers to glaze or smooth it.


MacBookの英英辞典NOADからの引用。
そういうものがあるのか。というか、そういう呼び名なのかと思った。
手持ちの学習英和にはこの項目は無いが、リーダーズ英和中辞典には載っていた。実は、不本意ながら?英和辞典も持っているのである。

排中律の話を、すのものさんがされている。
無理数の無理数乗が有理数になる場合がある。という証明。
排中律(Wikipedia)
面白い。
1月の2日。もちとみかんを食べて過ごす。