2008/07/31

億単位

まあ、苦しかったり、淋しかったり、恐かったりする。
67億人くらいはそうなのだ。きっと。
もっとも、そういう数値は意味をなさない。
自分においては、自分がどうか、ということに尽きるのである。他人のことはどうでもよいのであるから。

そんなことが言いたいわけでもない。
なんとなく、シンプルではない。

2008/07/30

創作したいか

そういえば、創作サイトだったのだろうか。
いくつかブログに拡散して、内容は希釈されて印象に残らないような薄っぺらなものになっている。
本ブログを開設してから、本家のブログの記事が激減している。単にこっちに移っただけであるが、内容のない物を書いていたということか。

気の利いたことを書くというのは、誰でも簡単にできるわけではない。
しかし、まず、何が書きたいのか。それを忘れている。
書きたいことがないなら、書かずともよいのである。
何をやっているのだろう。

とんぶらねえじゅ

Tombe la neige.
Tu ne viendras pas ce soir.
Tombe la neige.
Et mon coeur s’habille de noir.


ブログで紹介されていて、ネットで聞いたら、耳に付いてしまいました。

とんぶ ら ねえじゅ(降る、雪は)
ちゅ ぬ びあんどら ぱ す そわ(君は今夜は来ないだろう)
とんぶ ら ねえじゅ(降る、雪は)
え もん くー さびゆ どぅ のわ(そして、私の心は黒い(色を着る))

2008/07/28

コロンボ

コロンボを観る。DVDを借りてきた。
刑事コロンボ。コロンボは警部というか、警部補。
タイトルは『意識の下の映像』サブリミナル効果を使った殺人という、森博嗣や西澤保彦も負けてしまうほどのトリックである。
もっとも、凶器が出てこないことが本当のトリックなわけだが。
TVでおなじみのテーマ曲がDVDには入ってないのが残念。
コロンボ単独のテーマでないからか。NBCミステリー・ムービーを参照。曲名Mystery Movie Themeで検索すると、比較的容易にネット上に見つかる。

http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=188680
コピー?

2008/07/26

破たん

「たん」というのは敬称か?
あまり拡張できない話題である。
そういえばしばらくタンを食べていない。

好きなこ

きな粉である。
もう二度と好きだなんて言ってあげない。と固く決心する。
だいたいは、好きというのは本質的ではない。現象的には嫌いというのとほとんど同じである。
NとSが逆転することがある。磁性が消えるよりは簡単に起こる、のか、ちょっと適当である。

虚あるいは嘘

嘘でもいいから、毎日、あなたを愛していると言うべきである。
あるいは、毎日ありがとうと言えばよいのである。
毎日が過ぎていくのは、あなたのお陰である。そして、あなたの愛であると同値である。
毎日が過ぎていくというのは、幸福である。

少し寂しいのは標準的だ。しかし、あなたが居ないと寂しがるのは我が儘だろう。
もちろん、それが悪いわけではない。
そんなこんなで生きている。
しょうもないことが好きである。
しょうもないと言われるのがとても好きである。

2008/07/25

引き続き

ブログで何を書くかを考え中。
考えた時点で負けである。

どうするぴょん。

いや普通に。

トライクという乗り物があるとのこと。
ちょっと気になる。
説明は煩雑なので、Wikipediaでも引いて欲しい。

つまりは3輪の自動車っぽいバイクである。東南アジアなどで見かける気もするが、東南アジアに行ったことはないので、適当言っている。信じてはいけない。

3輪の自動車というのは、ごく普通にあった。たぶん、小学校高学年の頃までは、現役のバキュームカーがこの3輪だったと思う。バキュームカーというのは、し尿汲み取り用の車である。3輪の自動車は回転半径が小さいので田舎の細い道で民家の近くまで入るには最適なのである。
バキュームカーに限らずとも、小学校低学年のころは、3輪型のトラックはごくたまに見かけた。さらに、もっと小さい頃、うちにあったミゼットに乗っている写真があったりするが、さすがに、乗ったという記憶ははっきりしない。乗ったような気もする、という程度だが、たぶん錯覚か、後付けの記憶だろう。

トライク。ちょっと乗ってみたい気もするが、運転は、すこし疲れそうだ。
乗ったらかなり、どきどきするかもしれない。

2008/07/24

誰のために

ために、とか言ってはいけないのが、ブログかもしれない。
どうして、とかも言ってはいけないのである。
無心に書かねばならない。
というか、何も考えていないというのが、一番適するのだ。

本当か?

みんなが幸せになる書き方は何かないだろうか。

いや、何かこのブログの最初の方で違うことを言っていたような気もする。
いつのまにかこのていたらくである。

もうちょっと、だれも読みたくなくなるような内容にする、というのは面白いかもしれない。

2008/07/23

京極堂

『魍魎の匣』をレンタル屋でみつけて、衝動レンタル(衝動借り)。
原作をもう一度読んでもいいかなと思う。


否、そんなもの読み返すのならば、まだ京極堂の「邪魅の雫」は本棚に寝ている(立っている)ので読まねばの娘である。
「邪魅の雫」を棚から引っ張り出したら、全作品解説書が挟んであった(自分で挟んだ)。平成18年度版である。2006年9月の発行なので、早く読まないと、2年寝かせていることになってしまう。
まあ、別によいのではあるが。
 

2008/07/22

仏訳を

おしらせ。
泉由良さんの著作『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の朝見版仏訳をサイトにアップしました。遅くなった上に例によって拙い訳で済みません;

Eine kleine Nachtmusik

よろしければご覧下さい。
フランス語読めないという方は、
google仏英翻訳

仏語翻訳サイトなどをご利用くださいませ。
原作は泉さんのサイトにあります。日本語の方がよいという方はそちらをご覧いただくか、白昼社文庫を買いましょう。


朝見ブログの方にも書いていますので、そっちに書いていないことを。
仏和翻訳をかけると、「大豆、牛乳の木」となってしまっているところがあります。
原文は
Soya, bois du lait

boisは英語でいうdrinkの二人称に対する命令形なのですが、木、森、林を意味する名詞もbois
なのです。それは機械翻訳だからまあ、良しとして、Soyaは、そのままで大豆という名詞だったのでした。米語でもそうですか……。表記をSauyaに変えた方がソウヤに読みは近い気もしますが、どうしたものか悩めるところです。(※追記:現在はSouyaという表記に変えました。仏語読みだとスウヤになってしまうかもしれませんが、まあ、そういうことでご了承を)

2008/07/20

メンテ模様

twitterに休日限定で投稿しようつぃたら、メンテ中でできず。
ちなみに、ここの左側に(タイムラグはあるけれど)表示されるようにしている。フォローとか言う機能もあるらしいが、とくにお奨めするわけではない。RSSリーダに登録するという方法もある。これもとくにおすすめしない。

希釈されても、同じ溶液だったりするのでは面白くもなんともない。
このブログがほとんど独り言である。
いや、そもそもtwitterは独り言のツールなのだろうか。

2008/07/19

根本的な間違い

何を与えたいかを考えるべきであるが、
考えてしまうようでは、すでに駄目である。

そんなことでは当然どこにも愛は無い。もっとも、愛が与えることというのは間違っているようである。

くり返しくり返す

何も要らない。
それは嘘である。つまり偽である。

欲しいものしか要らない。と言えば正しいのかもしれない。おそらく真である。

欲しいものがあるのだろうか。

2008/07/18

倍ボツ

数が多いということは、埋没してしまうということである。
何がどう見えるかというのは、人間がすることであるので、時どきによって、違うのかもしれない。
というか、違う。
デジカメの功罪である。いや、良い点かもしれない。

もっとも、本当はデジカメでも数でもない。違うところに理由があるのである。
きっと。

2008/07/17

なしおえてしまった

岩波文庫今月の新刊。
ポオ『ユリイカ』を購入。
ぱらぱらと見てみる。──なんとなく、これはすごい。
散文詩。だそうだ。

ポオって誰だ? というのは措くとして。いや措かずともよいのか。EAP.エドガー・アラン・ポーである。

かまきり


蟷螂。

2008/07/16

ずりおちる輪

コーシーの積分定理の話は、昔、別のところに書いた。

複素平面上の積分であるので、証明せよと言われてもひょいひょいとできないのだけれど、数学的な話をしたいわけではない。少し言えば、f(z)が正則な領域D上での閉曲線Cの積分が0になる、というのがこの定理。正則じゃない点がCの内側にあるとゼロにならないのである。

たとえば、壁に釘を打つ。ここに輪を掛けようとする。掛けるためには、釘は輪の内側になければいけない。いろいろな輪を用意しても、釘の外に掛けた(つまり、釘に掛けていないわけだが)のでは、掛けることはできない。



笑い事ではない。
一生懸命、釘の外に輪を掛けようとしているのではないか。
何度やってもそれは無理である。

忘れてしまう

明日食べるパンがあることの幸福を、忘れているのである。それ以上の幸福があろうか。何を幸福ではないと不平を漏らすのか。



「またね」と言って別れたあの日に、何を願っていたのか、もう一度思い起こしてみるべきである。
本当は、誰の幸福を願っていたのか。誰の愛によって、誰が幸福であったのか。
そして、今は幸福でないというのか、よく考えてみるべきである。

拡張されるつぶやき

はたして。
私がここで何をつぶやけばよいのかというのが、一番の問題である。
言わば、raison d'êtore(レゾン・デ・トル)存在することの理由である。

私が何か。あなたにとって何であって、何を書くべきか。
何を書くことが、私に要求されているのか。

何を読みたいかでなく、何を読むのかということにも換言できそうである。

ふたたびtwitter

懲りずにtwitterのアカウントを再取得してみた。
とりあえず、原則的にこのtwitterはお休みのときのみ更新する、という方向で考えている。

というわけで、過去の発言を消したいのだが、消せなくて困っている。というか、困ったものである。⇒追記。WinのIEでやったら消えた。うーん。

2008/07/15

感傷あるいは緩衝

さだまさし、昔よく聴いていた。中学校のY先輩がカセットを倍速ダビングしてくれた。大きくなってはじめて買ったのは、さだまさしのCD「GLASS AGE」だったと思う。CDプレイヤーを買う前にCDを買ったので、行きつけのオーディオショップでカセットに落としてもらったのだった。
辛島美登里もよく聴いていた。そういえば、ファンクラブに入っていた気がする。
そう、ファンクラブと言えば、TARAKOのファンクラブに入っていた期間の方が長い。一度ライブにも行った。
最近は、あまり音楽を聴かない。
日本語の歌詞があると文章を読んだり書いたり他の作業ができないからだろうか。

それにしても、そういう頃があったのが信じられない気もする。
そんなに昔のはずはないのだけれど。
あるいは、今の私ではなかったのかもしれない。

2008/07/14

焦がれ

分かっているけれど、認められない。
何故なのか。
破たんするのが、それほど怖いのだろうか。
それは、きっと違うのであって。
破たんしてしまうならそれは楽ちんなのであるけれど、破たんを隠蔽あるいは修復させようとする変化が怖いのである。

しかし、と思う。
私(自分)の意のままになる部分は何かあるのだろうか。

抗っていても、おそらく時間というものによって、変わってしまうのである。
悲しいが、そういうものである。

2008/07/13

十の言葉

映画『十戒』を見てみる。
長い…… 3時間とちょっとある。休憩付き。リメイク版とのことであるが、2006年に50年記念のDVDなどが出ている。何故リメイクか、もとになった同監督の1923年版の十誡があるということ。そちらも見てみたいかもしれない。

さて、十戒というわけで、十戒とモーセが出てくるのは当たり前であるが……、感想などは別の場所に書くことにしよう。

2008/07/11

文庫は別か

Merci,
Je suis fatigué.
À bientôt(またあとで。)

積ん読禁止令が出ている気がするが、今月は文庫が色々。講談社から、はやみねかおるのアレと、篠田真由美のアレ。ともにシリーズなので買わなければいけない。

岩波からは、文庫復刊、アランの『音楽家訪問』買うべきか見合わせるか。文庫新刊では、ポオの『ユリイカ』が気になる。

京都は7月

あっという間に祇園祭(の宵山がもうすぐ)である。

どうして京都にいるのか訊かれたことがある。
単純かつ複雑な理由によるのであるが、そもそも人がどこにいるかということに意味はないのではないかと思う。

2008/07/10

エポケーのすすめ

楽しいところ、うらやむ処は目につく。逆に、苦しいところは見えない(見ない)かもしれないが、場合によってはあるいはちゃんと見れば、見えるかもしれない。

現象学的には、先入見をすてて、ゼロの状態から、状況を見ていくべきである。見ていないところが見えてくる。
プラスでもマイナスでもない部分が要らないということはない。

形にならない

何がって、愛が。

いや、愛はどうでもよくって。いや、どうでもよくないけれど。この際どうでもよくって。
幸せの形?
極大点が必ずしも安定な点というわけではないのである。

虚像あるいは、偽装という部分もあって、演出なのかもしれない。
騙されているほうが幸せなのだろう。
フィクションである。

現実だと、誰が言った?

2008/07/09

アラン

自分自身にがまんがならない人々、いろいろな情念のうちで最も愚かなものである羨望の念に悩まされる人びとを、エゴイストと名づけ、暴君とよぶべきであるとわたしは心得ているものだ。ねたみ深い人が自分自身を愛する人であるということはできない。逆にそういう人は自分自身を前にして悲しむのである。別の人間になりたいと思うのである。まぎれもなくむなしい野心だ。(アラン著作集3『情念について』(旧版)45:自己愛)

理系をしたい。

その昔、哲学者は科学者であった。まあ、知を愛するというわけで、同じと言えば同じかもしれない。

やり残していることは、一般相対論。
テンソルが出てくる。
電磁気学をちょろっとやっておいて、
共変形式に書き直して──と言っている自分が全く分かっていないのだが──つまりここでテンソルが出てくる。と、一般相対論もできるようになるらしい。

いや、さらっとながしたが、まず電磁気学が怪しいんじゃないかというしてきは正しかったりする。ナブラとか出てくる。怪獣みたいだ。ナブラの二乗がラプラシアン。やはり怪獣だ。

テンソル=ボスキャラみたいに見ているうちは克服できないかもしれない。

2008/07/08

一期一会

もっと感謝をこめて、文字を綴らなくてはいけない。
読んで貰えるのだとしたら、もっと喜ばなくてはならないし、中身の向上に努めなければならない。
愚痴っているだけではいけないのである。

いつまで書けるかわからないし、いつまで読んで貰えるかもわからないのであるから。

頽落

頽落(たいらく)というのはハイデガーか使った言葉だと思う。「存在と時間」38章。──もちろん元はドイツ語だろう。
やはり、存在と時間は読まねばならない。

2008/07/07

変化しているか

先日、名古屋の地下鉄、鶴舞線の荒畑駅で降りて、古書店に寄ってきた。
社会人になって就職し、しばらくこの駅で降りて会社に通った。最後に来たのが10年ちょっと前。町並みは変わっていて。どちらかと古い建物は建て替えられ、言うなれば、繁栄しているようであった。
その頃のことを少し思い出す。
楽しいこともあったような気もする。でも、いったい何のために無理をして働いていたのだろうか。

名古屋駅のユニモールという地下街、そこで知人に会って少し話す。ユニモールは専門校生の時に2年間歩いた通り道である。
今思えば、あまり有意義ではなかったというか、無駄に過ごしていたような気もする。毎日、本屋に寄って帰ったので、その時に買った本(おもに日本のSF文庫)が残っているというくらいだろうか。

とくに感慨深いというわけでもない。そういうこともあったというだけである。
先のことを思わなかったわけではない、と思う。実現していないのは、本当に望んでいないか、傲慢なエゴイズムであったか。あるいは、実は望んだことになっている、か。

今、私は何を望んでいるのか。
何年後かに私がいるとすれば、どこにいるのか。
ここを訪れたとき、何を思うのだろうか。

私はどこに行けばいいのか。

2008/07/06

ビンスワンガー

人生の意味への絶望と純粋主観性への解体とは、たがいに同一の事象の裏返しであろう。なぜなら、人生の意味はつねに、なにか超主観的なもの、普遍的なもの、「客観的なもの」、非個人的なものだからである。だがわれわれは、人間が人間であるかぎり、厳密な意味で、純粋主観性への解体は存在しないことを、確認せざるをえない。(現象学的人間学)

純粋主観性への解体とは何か。

2008/07/05

積んだる

田川建三著『新約聖書 ・ 訳と註』第1巻マルコ・マタイ福音書が発売された。
日本の聖書の問題は注釈がないところ。本文だけ読んでも意味がわからない。有り難いものならそれで良いという風潮があるのかもしれない。が、やはり、それではよろしくないように思う。

注釈が充実しているので、めちゃ厚い。まあ値段は妥当というか安いのであろう。
とりあえず、どこかで見てみるか……
買いません。今は。


※一般的に日本で入手が容易な聖書協会の新共同訳聖書のこと。

ビンスワンガー

ビンスワンガーを読む。

2008/07/04

3部作

携帯の待ち受けはムンクの「叫び」の画像にしてあるというムンク好きの私(誇張)。
今さら、この画が「不安」「絶望」という3部作?であることを知った。この3枚の画は橋?の上の人物?が違うだけで、背景などの構図はほとんど同じなのである。

ムンク(展)来ないだろうか。

2008/07/02

寂れる。


梅雨空の風力発電機。
tumblrネタだったかもしれない。何を書いていたのか忘れた。
仏語ネタだった気もする。
使っていないと忘れていくので、なにか考えなくてはいけない。

2008/07/01

積んでる注意報

6月は本を買いすぎた。猛省せよと言われている。
猛省したい。
もうしない。できるだけ、きっと。しばらくは。

ヴァイツゼッカーとビンスワンガーは余分だという意見が過半数。
マックス・ヤンマーの『量子力学の哲学』はどうせ読まないと言われているようである。読む、と言うしかない。いつか、たぶん。


まあ、しばらく買うの控えることにする。
と言うか、読めばよいのである。