2008/06/30

再読するは文庫

川原泉『バビロンまで何マイル?』
を読む。
覚えていない、忘れている。
いつ読んだかも覚えていない。7年から10年くらい前ではないかと推測するところ。忘れないように読む方法はあるだろうか。
もっとも、忘れてはいけない、ということもないのだから忘れても良いのか。というより、単に忘れっぽい?

2008/06/29

かーら教授

実家の本棚にはまんががある。
教授の『フロイト1/2』より「フロイト1/2」「たじろぎの因数分解」を読む。
2000年頃に主に古書店で文庫化された川原泉の本を買い求めた。同氏の漫画を初めて読んだのはさらに10年程前なんじゃないかと思う。食欲魔神シリーズ。どんな話だったか


あ、愛がある──。
今さらに気がついた。

2008/06/28

草稿

「小説を書いているんだが、どう思う?」と、彼は訊いた。
 そういうことを軽く問う彼は、高い確率で何も考えていないのである。そんなことで小説が書けるのだろうかと、我ながら心配になる。
 黙ったまま、少し考えた。
 小説を書くのは、たぶん、自由である。表現の自由というやつだ、きっと。どこに規定されているのかは知らないけれど、そんなものがあると聞いたような気がする。もっとも、書いてはいけないこともあるのかもしれない。いや、それは公開してはいけないのであって、書くのは自由だろう。誰も読まないのであれば、何を書いても問題はない。
 考えたが、そう言う応答を彼は望んでいないような気がする。考える方向を誤ったようだ。カンガルーではない。
 はっきり言えば、彼が小説を書こうが書くまいが、どうでもよいことである。書けば、友達のよしみで読むというだけだ。次作を待ちわびるというほど、少なくとも自分の趣味には合わないのだと思う。
「沈黙をもって答える」と、とりあえず答えてみた。
「なんだそりゃ? なんだか自己矛盾した答だな」不満そうである。まあ、そうだろう。
「じゃあ、何と言えば良かったのかな」
「そうだなあ……。まあ、いいや。それより、ちょっと話のプロットを聞いて欲しいんだ。どうも、詰まってしまって」
 そうまでして書く必要はないんではないだろうか。そう思うが、まあそれは言わないことにする。思ったことを言えば良いというわけでもないのだ。
「詰まって? と言うか、聞いても何も言えないと思うが?」聞いて何か言えるなら、自分が小説家になっていると思う。
「まあ、聞くだけでいいから。壁に向かって喋るよりは効果的だろう」
 壁と比較されても嬉しくはないが、壁よりも劣ると言われるよりはましかもしれない。

……(以下続く)

2008/06/27

古書

ペソアの情報をさがしていて、文壇高円寺というブログにたどり着いた話は前に書いた。
「sumus」とかにも関わっておられるらしい。「新・文學入門」やら、岡崎武志氏の名前も出ている。
あ? だからなんだ?
まあ、そういうところが、おもしろいのである。

関根清三先生と旧約聖書

関根清三『旧約聖書と哲学』(岩波書店)を買う。
関根氏については、拙ブログのノートを参照のこと。

三条大橋を歩いて渡る。欄干が木だなと思って通ったが、そこに付いているギボシのなかには秀吉の時代に作られたものもあるんだとか。どれだろう。歴史に疎いのでどのくらい古いのかすぐ分からないのだけれど、500年くらい昔らしい。

ホテルの前には修学旅行生のジャンボタクシーが列を成している。班行動なのだろう。どのくらい自由度があるかわからないけれど、見たいところを決められるのなら、それもおもしろいだろうか。まあ、完全な自由時間にしてしまえないのが中途半端とも言える。


BAL店では、古本コーナをもう一度見る。『新・文學入門』という本の企画。立ててあるサイン本の背後に普通の本があったので、少し立ち読み。
おもしろいかも。
仮想体験的にはおもしろいが、純粋におもしろいわけではない、のか。ただ、小説なども結局は同じものなのかもしれない。あるいは、純文学は違うだろうか。──すでにその分類をすること自体が何のためなのかと批判されるべきだが──

辻潤

絶望の書を買う。古書でしか入手できないが、比較的入手は楽。ネット時代になって、古書の入手はたぶん楽になった。
絶望という感じもしないが、現代では普通のような気もする。初出は昭和5年。当時の方が現代より現代っぽかったのかもしれない。


辻潤は、当時(いつだよ)ロンブローゾの『天才論』を訳出してベストセラーになったことで有名だとか。この「天才論」はほとんど入手不能である。昭和57年発行の全集には入っているようだけれど、情報がない。まあ、探す人も読む人もいないということか。 

2008/06/26

ありがとうが出ない

フランス語のthank you ってなんだっけ。としばらく考えても出てこない。
こういうのをボケ度忘れと言う
ちなみに、件の単語はmerciである。メルシー。Rの音は日本人にはハ行に聞こえる。痰がからんだようなというか喉の奥でうがいをするような音にするわけで、英語のRでは駄目である。メ(フ)スィと発音するとそれっぽい。まあでも、それで通じるかは知らない。

ちなみに、度忘れをするというのは、échapperという動詞を使うみたいで、忘れる物を主語に置き、忘れた人は目的語になる。お気づきのように、英語のescape(エスケープ:逃げる)に当たる語である。あくまでも度忘れは記憶?が逃げていったのだ。


時事ネタ
仕事場に置いてあった新聞。
祇園祭の山鉾の提灯の電球を電球型蛍光灯に替えるという。CO2削減になるとかなんとか。20w、40wの電球を60wの電球型蛍光灯に替えるとか。
どうしてワット数が上がって削減になるんだ!と突っ込んだけれど、どこにも書かれていない。たぶん、というか、60ワットタイプの電球型蛍光灯ということで、消費電力は15wくらいなのだ。いい加減な記事で、まじめに二酸化炭素削減など考えていないことがうかがえる。もっとも、こんなことで削減はできないので、まじめな記事を書く気が失せたというのかもしれないが。まあそんなことはありえない。

2008/06/25

4行詩

11,2世紀のペルシアの科学者、哲学者、詩人のハイヤール。『ルバイヤート』
パラパラ、と見てみる


もうすこし細かい共通点をあげると、ペソアも辻潤もペルシアの詩人、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』を愛読していた。

先日引用したブログペソアのトランクで、こんなことが書かれてあったので、買ってみた、というわけ。
なるほど、ペソアと雰囲気が似ているような気もする。
読んだ瞬間「お?」と思うのである。「お!」か。「お。」かもしれない。



どうせ何も無くなっちゃうので、酒でも呑もうね──みたいな詩があったりするのだけれど、穿った見方というか、読みが浅いのか。(それらは逆であるが)
ほんとうにそうなら、詩を書く必要はなくって、酒呑んで寝ていればよいんじゃないかと思う。

穿った見方や、深読みしなくても、分かりやすい言葉で書かれた、短い詩だ。ま、4行なんだから、短いし、短いから分かりやすくなる──とは言えないから、分かりやすく書かれた短い詩と言うしかないか。




人間が有限であるということについて、木村敏はこう書いている。
神のように無限に遍在しているものであったなら、「私」ということば、「自己」ということばそれ自身がなんの意味も持たないことになるだろう。

2008/06/24

地下鉄。太い竹の束を抱えている人を見かける。買ってきたのでしょうか。何をするんでしょう。

竹、鯉のぼりの竿とか、物干しの竿が竹でしたね。まあ、畑の裏山に孟宗竹の竹林があったので、普通に竹は入手できたのですが。竹に被せてお湯をかけると縮んでピッタリくっつくチューブを使っていたのを一度見かけた記憶がありますね。
>物干し竿カバー
商品情報>>
気まぐれでググってみたら、まだあるんですね。少し田舎では現役でしょうか。

2件の本屋を通り過ぎて、3件目を過ぎたところでルバイヤートを買うのを忘れたことに気づいて、すこし戻る。
その題名は、4行詩の複数形、とのことです。
買ってから気がつきましたが、青空文庫で読めますね。

楽しいこと書けよ

木村敏の本を読んでいます。

科学好きっ子が行き着く先は、私とは何か、です。もっとも、頭の良い人はそういうことは考えないという判断をするのかもしれません。

まあでも、私というのが脳の中の信号でできている、というのは分かったような気になりますが、どうして一人と言えるのでしょう。というか、ここでいう一人とは何か、です。
右手の神経が繋がる脳と、左手のそれは違う脳の部分なのでしょうけれど、それを私の左手、右手と一人の部分として認識しているのは何なのでしょう。

脳を見ていても解けそうにありません。
やはり、哲学的なアプローチが有効なんじゃないかと思います。

同じ?

って、内容、朝見ブログと変わらないじゃないか。
という指摘はすでに何度もされているような気がします。自分でも何度も突っ込んでいます。

単なる雑音であっても、おもしろくないものと、おもしろいものがある。

まあ、べつにおもしろくなくてもかまわない。おもしろくない方がよい。おもしろいとか言われたくない。

どうにもいい年をして、拗ねている気がする。
いい年とか言っても、だいたい、おとなになったって人格が変わるわけではない。全然進歩してませんけど。あ、僕だけですか、そうですか。いや、少しは進歩したか……も。

──毎日寂しくて泣いています。
とか、書くのはどうでしょうね。
でも、これではお客が減りそうですから、
──毎日寂しくて笑ってしまっています。
この方がよいかもしれません。

それにしても、まあ、どうでもいいことなのですが、独りでは困るという、そこに愛も恋もないほとんど実務的な理由で寂しかったりするのです。(あ、念のために言えばHな意味ではありません。と言うか、それはそれで許容できる理由だと思います)
それ以外に寂しい理由がありますでしょうか。

2008/06/23

買う買わない

BALのジュンク堂に、御池通から三条通をてくてく歩いて寄る。
特設の古本コーナとか、ふむふむ、と見る。競争になっているのだね。
ヨコジュンの本があるな、と思う。買わないけれど。

辻潤の本、講談社文芸文庫に一冊あるが、選り抜きみたいなものだろうか。手にとって見る。普通。普通というのは欲しくないわけでもないわけだ。でも買わない。
「絶望の書」というのが気になるのだが……、古本で買うしかないか。

ニーチェの「権力への意志」上下巻ちくま文庫。ほしいけれど、どうせ買っても読まないし、まだ買わない。この本から引用されることも多いので、買っておいてもよいのだけれど。
まだ買わない。

今月は、一冊買う予定の本がある。25日発行。

2008/06/22

威張れ

単に生きていることを威張れ。

というのは基本に措きたい考え方なのではないかと思う。
キェルケゴールによれば、ちゃんと絶望するのも簡単ではないように思う。


キェルケゴール信奉者なわけではないけれど、『不安の概念』『現代の批判』など、考えることに役立ちそうな本だと思う。

不安と言えば、ペソア。
散文の断片集である日本語訳『不穏の書、断章』はその一部を訳したもので、これは持っている。もっとぶ厚い『不安の書』というのが出ているが、こちらは持っていない。買っておかないと入手困難になるだろうか。

孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、そのしかたは分析的に定義することはできない。「『不穏の書、断章』p149(234)より抜粋」


ペソアのトランク

検索していたら、このようなブログが見つかった。ペソアを読む人は、辻潤『絶望の書』を読むべしという。絶望の書、まんまやーん。

退屈男と本と街
このブログは読まれているとか。


たまには時事ネタ。
タバコ1000円とか。
石油はどこまで上がるのだろうか。ガソリン1000円/Lとかになったら車に乗らない? さすがにそうなったらどうにもならないだろうから、そこまでは上がらない? ではどこまで上がるか。

慰めない

明らかに自分の意思で孤立してるような気もするが、客観的な判断はできない。私というものが関係に存在するのであれば、あんまり良い状況ではないことは確かかもしれない。
関係に存在するというのは、ある対象との間が存在するということである。時間的および空間的な拡がりを持つ誰かもしくは何かである。

いずれ、帰るところがなくなるのだろうな。
それはすこし、あるいはとても嫌だな。と思う。

必要とされたいとは思うが、それは愛とは別のもの。

すちゃらかで適当な奴なので、まあ、仕方がないやね。しょーもないの。

というわけで、オゥヴォア。

眠られぬ夜に

まっさきに人間に慰めを求めないで、神にそれを求めなければならない。すでに落着きをえてから、人間に向うべきである。(ヒルティ『眠られぬ夜のために 第1部』6月16日)


ある人の生涯において、かなり長い期間にわたって、詩篇110の待てという要求だけが、絶えまない導きとして役立つことがしばしばある。(前掲書 6月17日)


サイトの方で、遅れ気味にちまちま(誤用?)引用しています。(Pour « FÜR SCHLAFLOSE NÄCHTE »
というわけで、引用の引用など。

2008/06/21

雨が降ると本が湿気を吸って困りますね。

結城浩『数学ガール』という本が少し気になるこの頃。そういえば昔、著者のサイトで公開されていた(いる)(Web版)のを読んだ気がします。収録されている話は(Webで公開された)それとは異なるようです。
実は出たのは一年前で、近いうちに続編が出るとか。
まあ、たぶん買いませんが。
──文庫とかになれば買うかも


タイトル部分に写真をつけて見ました。曇ってますけど……。撮影地は、北海道は美瑛町(の筈)上富良野町。曇っている。フィルムを使うカメラで撮って、スキャナで取り込んだ画像です。

そう言えば、昨日、駅のホームで、フィルムをカメラにセットしている若者(?)を見かけました。ああ、フィルムが好きな人もいるのね。と思いながら見ると……。お、ブローニーじゃないか! 一眼レフじゃないようですが、フィルムはブローニーでした。でしたと言っても、私は使ったことないですけれどね。 


電子辞書がメーカから戻ってきました。

2008/06/20

何を書くの?

いつの間にか「である」調になっているOAA(当ブログの略称。今決めた)ですが、えーと、これで良いんでしょうか?

人に訊くことでではないですが……
まあ、ちょっと試行錯誤中ですということでお許しいただいて。
もう少しの間、暖かく見守ってあげてください(自分で言うか)

独り

ひとりというのは、寂しいとかそういうものは置いて措いても、いろいろな問題が潜在していたりする。まあ、そういう問題解決のために誰かを欲するというのもきっと悪ではない。愛ではないかもしれないが。
それを言うならば、恋、でもそう、結局そういうものはどうでもいい部分なのだ、と思う。
最終的に愛がなければ、破たんする。
できるのなら、愛を先取りしてしまえば、先のことを憂いずに済むのだろう。先取りと言っても、自分から奪うものではない。いずれにしても、恋というのは持続には全く役に立たない。

読書はキェルケゴール、絶望について。
平行して、木村敏の新書なども読み中。
ちょっと重い本ばかりで、軽い小説が読みたいと思いますが、京極の未読本とかか(それは重い)。

2008/06/17

恋というのは欲しているというもので、愛というのは与えるものである。

ここのブログは、タイトルにもあるようにアマンスな話題に特化しなければいけないという使命がある。アーメンスな話題ばかりではないかという指摘は的を射ているかもしれない、それもタイトルに含まれるので許容されたい。

第1行に書いた内容は、すくなくとも後半は誤りである。
後半が誤りであると言うことは、前半は当たっているというわけであるが、そういうことはあらためて人に言われなくても分かることである。
愛は与えるがゆえに豊かなのだ。したがって愛は本質的に高邁なものなのである。強いられてやむをえずの高邁ではないのだ。人間の精神の最も高い部分から是認されなければ、愛は生まれえないものなのである。(アラン『情念論』旧版p47)


欲しているとは何か。何を欲しているか。本当に定冠詞の何かを欲しているのか?
ただ愛したいだけというのも、それを欲しているだけでは高邁でないのである。

さみしいときにキスしてくれるだけでよいのに。
そう思っているのは誰なのだろうか。

キルケゴール続き

キルケゴールかキェルケゴールか、というのははっきりして欲しいけれど、Kierkeなので、キェルケのほうがより近いのかもしれない。もっとも、ゴールのほうは正しい音と全然違うじゃないか、というのは棚上げなのだった。

あらゆるもののうちで最も美しく最も愛らしい女性の青春でさえも、絶望でしかない、幸運の賜物以外のものではない。

とか言っていますが、まあそれは置くとして……


絶望しているのか絶望していないのかというのが単純ではないようで。なかなか深いものがある。
ボク絶望していますーと言っているから絶望しているとは言えないのである。そりゃそうだ。
ただ、逆もあるようで。一見普通なんだけど、それが絶望だったりする。いったい絶望とは何か。


とにかく、絶望することができるということは無限の優越である。──とキルケゴールは言う。