2008/06/15

絶望とは。

絶望。
こういうときに当家の本棚はそれらしい本があったりする。
絶望といえば、キェルケゴールだ。その著書「死に至る病」によれば、「死に至る病とは絶望のことである」とか「絶望とは死に至る病である」とか書かれている。誤解がないように書いておくが、絶望によって死んでしまうということではない。それどころか、断じて死ぬことはない、とも言っている。
ちょっと読んでみよう。

有名な「自己とは自己自身に関係するところの関係である」もこの著書『死に至る病』に書かれている。
分かったようで分からないような、なんだかすごいぞ、みたいな定義である。
関係するところの関係って何だろうか。
10代、あるいは20代のうちに読んだら、面白いかもしれない。

トーマス・マンを読む。

「トニオ・クレーゲル」
これはおもしろい。
けれど彼女は絶対に来はしなかった。そういうことはこの世では起こらぬのである。全く昔と同じことだった、そうして彼は昔と同じように幸福だった。

このあと、その理由を明らかにする一節があるのだが、そう言いきってしまえば、もうそれ以上の反論は出てこないのである。
たかだか恋で、言わば妄想である。
苦悩である。狡猾である。泣くしかない。

ふたつの世界のあいだに立つ苦悩。自分をたいしたものじゃない、と言う詩人。

幸福だったのである。
なぜなら……と続く。続く部分は引用しないことにする。


幸福とは何だ。幸福であるなら、何に苦悩しているというのか。

2008/06/14

電子辞書と読書

電子辞書の内容に間違いがあったということで、修理に引き取られていく。紙の辞書でも誤植や誤記はあるが重版の際に直されたり、もうそのままで直されなかったりだから、まあそういうものだ。
本当に調べるならば、複数の辞書に違う方向から当たるのがよいのだろうけれど。

大人の(男の?)趣味とか言うとカメラとかクルマとか酒とかだろうか。まあ、男に限るわけでもないが、自分が(たぶん)男なので、という意味。
それ系のアニメとかも、もう今では一般的かもしれない。
語学というのは、まあ普通かもしれない。英会話とか。まあその他。
ヘブライ語だって、一部のキリスト教会などの勉強会みたいなところでは普通にやられている。普通というのは一般向けに、という意味で。

哲学はどうだろうか。まあ、趣味ではないのかもしれないけれど。
数学の方が趣味にしている人は多いかもしれない。とも思う。

2008/06/13

目的

ブログを書く理由というか、意味のようなものはあまり深く追究してはいけないというか、触れてはいけないことのようで。まあ、書いてしまえばそれでよし、なのか。それなら書くことがどんどん出てくるのかというと、そういうわけでもないらしい。
いくつかのパターンを用意しておいて、それを使えば簡単だろうか。

2008/06/11

本屋

本屋に寄って帰る小さな幸せ。


TVで見たハチクロの中に出てきた言葉を思い出す。
それを否定して、あるいは肯定して、さらに超越することは可能か。
それは誰のためか。
あるいは自分以外のためであることがこの世にかつて今も未来にあるのか。

2008/06/10

傾向と対策

既存のブログ(açamiBlog)と違う内容にしているつもりだが、どうだろう。大差ないかも、とか聞こえそうである(幻聴ではない)
さて。
何かのコトについて書くのはけっこう大変。アウトプットにしているつもりが、インプットの公開ということになってしまったりする。
いや、いったい最初何を書くつもりだったのだろうか。──たぶん深く考えていない。

2008/06/09

雨時々広辞苑

広辞苑第6版を買った。買ったのは電子辞書の追加コンテンツ。第5版が入っているけれど、古いから追加。
広辞苑を最初に買ったのは第3版だった。手元に実物がないのでいつ買ったのかはわからない。20年くらい前だろうか。たぶん、小説を書くために買ったのだ。でも、必ず広辞苑を引いていたわけではなく、普通は岩波の国語辞典を使っていて、意味の気になる単語だけ広辞苑で確認していた。

マタイ書くらいは読んでおけ、と言われそうで、まったくもってその通り。でも、1コリの「山を動かす〜」のところは、以前に「愛がどうの」という話題で引用しているのを思い出した。それで覚えていないというのは駄目駄目である。

某スタンダールの新訳がこき下ろされている。翻訳が悪いというわけではなくて(悪い部分もあるらしいけれど)日本語がおかしいとか、ごっそり抜けているとか、そういう翻訳以前の部分が問題みたいだ。悪い訳だと言われると読んでみたくなるけれど、読むなら既刊の訳書のほうだろうか。ちなみに原文はWikipediaからリンクされている。


少しカゼのような気も。
そういうときは寂しいのだった。
たとえば、彼女が欲しいのねという詩?の一節があったが、これはどういう意味なのだろう。この彼女が定冠詞か不定冠詞か、というようなところは些末な問題だと思うが、欲するというからには何かを得るんだろうか。
寂しいというのは欠落部分があるというか充足するべき隙間があるということか。
人間の生物的制約は、寂しい。
たとえば、それは僕には関係ないはずの部分なのだが、それによって寂しい。
関係ないはずの部分の補填は、常に純粋な愛に依っている。
いつもそれを忘れている。

2008/06/07

今さら現象学

現象学というのはよく分からない言葉で、哲学じゃないのかと思う。哲学というのは西周(にしあまね)の訳に依っているというのは哲学の最初の講義でかならず聴く内容だろうか。ギリシャ語のフィロソフィアからきているわけだから、愛知と訳してくれれば良かったと思う。言わば愛知学だ。


zumSem
なんとブログが始まっているのではないですか。ブリリアントですよ。



ヘブライ語をまたやりはじめようかと考えている。テキストは持ってきていないんで思っているだけ。ヘブライ語というのは文字で書くときに母音を(ほとんど)書かない。というか、母音の文字がない(のかな)。日本でも子ども向けの本にはすべてルビが入っているが、旧約聖書を見ると、母音記号というのが入っていて、読み間違えることがないようになっている。まあでも、KUUKIYOMEがKYでしたっけ、そこまで省略してもどうにかなるんだから母音が無くたってお茶の子さいさいだと言われそうだ。

それよりも仏検とかの方がよいのでは? まあ、そうか。




『欲望のあいまいな対象』という映画があるらしい。
僕には合わないんじゃないかと思うけれど、合わないとか言われると、ちょっと見てみたい。映画というものは時期を逃すと入手困難である。ていうかまあ、スクリーンで見るのが映画かもしれないけれど。

2008/06/06

全然足りない

フッサールの「デカルト的省察」は買ってあるようで買ってないと思ったらやっぱり買ってなかった。デカルトの「省察」は買ってあるけれど、ちょっと違う。フッサールと言えば「イデーン」だが、そっちは買ってある。置いてあるだけでは駄目なので、まあ順番に片付けていきたい。──と思う。
定番という本は岩波文庫やちくま文庫に入っている。入ってない本は全集を読むことになる。分売不可でも大きな書店では買えたり買えなかったり。インターネットで古書店の在庫を検索できるようになったのは喜ばしいが、入手不可能な本は存在する。──存在すると言っても存在しないわけでややこしや。

真面目に更新

眠られぬ夜のためにのために(6月3日)にはコリント人への第一の手紙13の2からの引用が含まれていた。「山を移す」信仰というものだが、なんだそれは?というわけで聖書の注釈にあたると、マルコ福音書11-22、マタイ福音書17−20でイエスが、信仰があれば山に動けと言い動かすことができるという意味のことを言っているのを指している、のだった。なるほど。

何をしようかというのは、まだ考え中。何もしないという選択もある。
10年前何をしていたのか思い出せない。小説も書いていないし、森博嗣ミステリも──10年前は微妙だけれど、逆に森ミステリなどに手を出す前はと言ってもよい──読んでない生活だった。11年前からサイトをやっているらしいので、ううむ、まああまり記憶に残らない生活をしていたらしい。

2008/06/05

悩みのない人

そういう人はいないというか、誰でも悩みのひとつやふたつくらい抱えているわい、というのがたぶん本当だと思う。現在の生活が充足していても、まあそれがいつまでも続くという保証はないわけで。

悩むというのは、考えるにニヤリイコールなのだろうか。
何もなしに生きていることは人間らしいと言えるのか否か。つまり、考えないことが人間らしくないのではないか。

まあこの辺りハイデガーを読まないといけないようで、いよいよ存在と時間に手をつける時だろうか。
そういえば、ヤスパースも一部しか読んでいない。ヤスパースの哲学は具体的な事柄について論じているので役に立ちそうだが、哲学なので分かりやすいかどうかは何とも言えない。その点はアランのプロポは具体的で分かりやすい。まあ、哲学の勉強としてはどうなのかという点もあるけれど、哲学の勉強することにあんまり意味はない。自ら哲学するべきなのである。

ガソリンが高いらしい。
石油が高いのか。
経済の勉強は全くしたことがないししたくもないけれど、値段が高くても売れるから上がるんだろう。中国が輸出から輸入国に転じたり、インドで安い車が販売されたり──自動車がどの程度の割合で石油を使用しているのか知らないけれど──石油に変わるエネルギー源はなにかないのだろうか。
ていうか、石油というのは一説では古代の植物が元になって地中で変成した物だとか言われていて、だとすれば、それは太陽エネルギーの貯金のようなものである。バイオ燃料とかは貯金しないで使っちゃおうということか。
いずれにしてももともとは太陽エネルギーしかないわけなのだけれど。
やっぱり、ちょっと人口減らないとまずいのね、というか、今の人口で足りないとか言っていたらこの先どうするのかってちょっとかなり問題なんじゃないだろうか。見て見ぬふりで、誰もそう言う(何十年も)先のことは考えない考えない。

ガソリンと言えば車、デートに車って安易だったけれど、まあそういう定番だったような。今はそういう時代ではないのか。データはないけれど。

2008/06/04

要求

安らいで眠りたい。
(※安らかに眠るではない。※※不眠症なわけではない)

それがなかなかかないませんね。
高すぎる望みなのでしょう。きっと。

請い

恋というのも、非常に普通で、ほとんど思考というのはもうカタログに載っているようなものである。やることは単純で、あんまりバリエーションがない。バリエーションはないけれど、恋について小説に書く、あるいは恋するのは条件さえ整えば難しいことではない気もする。
べつにそんなに好きじゃない。
好きかどうかは問題じゃない。
その条件は十分条件ではない。
愛は無造作にその辺に転がっていたりして、気をつけていない踏んづけでしまっていたりする。あ、君の愛ここにあったの?
そんなとき僕の愛などというのは一生懸命砂でこしらえていてこしらえているんだけれどあんまり格好良く形にならないというかほとんど崩れていて、愛なのか何のかさっぱり解らない。

2008/06/03

へたれ

へたれている記事などは誰も読みたくないんじゃないかと思う。読むのは大丈夫だとして、多分あんまり読んでも楽しくない。楽しいものだけ書くというのはそれはそれで余分なフィルターを通ることになるのだが、果たしてどちらがよいのであろうか。

ていうか、へたれているのか? と言うと、そうかもしれない。凹んでいるのではなくてへたれている、へたれってなんだよ説明してくれよ。という要望にはお応えできないので許してください。単純じゃないので、ちょっと説明ができないのです。
理性的にはまったくなにもへたれる理由はなくて、場合によっては嬉しいとさえ言えるんじゃないかと思う。じゃあ、なんでへたれなのか。まあ、中也のように言うなら、野望が紛糾しているのだろう、か。
まあ、へたれる余裕があるというか出てきたのね。ふにゅ。
とうわけで、何か新しいことをしないと──あ、まあ新しくなくても良いわけだけれど──いけないと思う今。

少し前は、小説を書いていたが、もう全然書いてない。ペソアみたいに断章を書こうかしら。いやそれは真似であるし、そもそも書けないのではないか。その前に断章を読め、と言われる。読めと言われるともう本がいっぱいあるので、これを読んでもばちは当たらない。
じゃあ、読もうかー。

2008/06/02

雨の所為じゃない

雨。梅雨入り。
寂しくて泣いていたのはいつだろうとか考えてみても、寂しいから泣いていたというような記憶はない。幸福なのだろう。阿呆みたいな話であるが、なんとな長く生きているのだろうとか思う。
幸せだった。か。
幸せ、というか、自分勝手だろうか、早く言えば。我が儘と言えば近いだろうか。
ただまあ、少し寂しい。
ひとり。
ひとりが嫌だというわけではない。本当だろうか。
多分きっと本当。だから我が儘なのである。

ぼけっと

リスボン物語のDVDを見る。二回見るほど面白いのか、というと、まあそうでもないかもしれないが、派手なシーンは出てこないので見ていて疲れないのでちょうどいいのね。ヴィム・ヴェンダースの作品、他にもあるのだろうか、適当な映画が。

泉由良さんの小説の仏訳第二弾は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。とりあえず、最後まで訳出した。訳を見直して、この小説の特異な部分をどうするか考えないといけない。──というか既に考えてはいるのだけれど、うまくいくのかどうかはやってみないとなんともかんとも。しかし、こんな下手くそな──いや下手ならまだしもそのレベルまで達していない訳を公開して、原作もこんな意味不明な文章だと思われていたらどうしよう。どうしようと思うなら止めておけばよいのかもしれない。こういうのを矛盾という。矛盾というより無茶苦茶だ。

ビールを飲みながら、やさぐれている。やさぐれているというより、くだを巻いている。やさぐれるという語は広辞苑にはないようで、新しい広辞苑を買わなくてはいけないかもしれない。というか、欲しい。最新の辞書が無いと落ち着かないのである。あるいは、拗ねているのか。拗ねているのではなくて、幼いだけだったりするかも。
本家ブログ「問題か野望か」でもとりあげた中也の言葉、『問題は、紛糾してはゐない。野望が、紛糾してゐる。』(朝見ブログ:「あった」)というのがオリジナル。紛糾しているのは野望であるというのは、まあ、するどい指摘だと思う。つまり、なんというか、できれば自分に有利なように進んで欲しいわけで、それでは全く愛ではない。

愛というのは選択である。
愛することも愛さないことも選択できる時に、愛を選ぶことに、そこに愛の価値がある。
そういう小説はないか? 誰かそういうことを言っていないか。ここ数年来、それを探している。
例えば、好きというのは、恋と言っても良いが、選択などというものはないのであって、ただ、どれだけ欲しいかという、あるいは自分だけ嬉しい状態になるかというだけである。──では、好きより、好きでない方が善いのか。好きじゃない。
あの日、愛はなかったのか。愛を選択したのは誰だったのか。今、愛しているの主語は誰なのか。
そんなことさえもわからなかったのか。
が、それが悪いわけじゃない。

夜も更け。ぼけっとしながら、そんなことを考えている。

2008/06/01

見てねと誰が言うのか

見てねと書いておいて、全然更新されないのはどういうことなのだとお叱りを受けそうですが、実際にお叱りを受けないところをみると、誰も期待していないのか、誰も見てないのかいずれかでしょう。

こちらに誘導したのは、左側に他のブログの更新状況が表示されるからであって、別にここが毎日更新されるというわけではないので、念のため書いておきます。まあ、だからといってあたらしくリンクしておいて更新がないのは良いということはないのですが……

まあ、たまに更新されるトップページと考えれば、あんまり更新しなくても大丈夫かもしれません。そうだ、そういうことにしましょう。

8社共同復刊から、3冊を購入しました。リンクは本棚もしくはブクログから。「量子力学の哲学(上)(下)」「ヒルティ伝」の3冊です。積ん読が増えただけという気もしますが。前者は哲学と書いてありますが、哲学の本ではなくて量子力学の本です。哲学と題されているのは、考え方のアドバイスのようなものを含むからでしょう。通常の教科書が淀まない証明のような書き方になっているのとは異なるわけです。でも難しいのよ。


読書は北森鴻のミステリとか、木村敏の現象学など。古典というか、シェイクスピアとかもう何冊か読もうか、とか思うところ。フランス語の勉強は進んでいませんが、どうしたものでしょう。

2008/05/30

何を書くの

何を書くかを書くという、最初から意味のないことをしようとしている気がします。
意味がないなら止めておけ、と言われそうですが、意味があるか無いかは書いている今は判断できませんし、意味があるかないかはあまり重要なことではないのかもしれません。すべての存在は別に意味を要請されているわけではないのです。

あるいは、逆に言えば、存在しているんだから意味がある。だから、意味があるないというのはそもそも意味のない議論なわけですね。意味のない議論に意味はないのかというパラドックス。この種のパラドックスはラッセルのパラドックスでしょうか……。まあそれはどうでも良いのですね。

と、このような話になってくると、存在とは何ぞや、ということになって、言葉の問題じゃないか、という考えも出てくるわけですが、そういうことを言うには、やはりハイデガーとか読んでおかないとだめですよね。積ん読じゃだめです。デリダとかレヴィナスもツン毒してありますが、ハイデガーの「存在と時間」は読まないといけないでしょうね。どうしても。

ハイデガーの話はいつか本を読んでからすることにしましょう。(いつだ?)
今読んでいる本はアラン。アランはプロポという書き方をとっているのですが、まあ、短い文で簡潔にまとめた形式とでも言えばよいのでしょうか。
別の場所ではヒルテイを読んでいますが、ヒルティはキリスト教的な思想があるので、それがクッションになるのですが、アランの場合はクッションがないのでグサッと突き刺さるというか、ズバッと切断うぎゃー、みたいないさぎよさがあります。
というわけで、ネタに詰まったら、アランの言葉に助けてもらうことにして、適当に意味のないことを書きつつ──と、このブログ進めていこうなどと考えています。

2008/05/28

OMNIS AMANS AMENS

本家の朝見ブログに書かない内容を書こうというつもりなのですが……。何故に本家で書かないのか(書けない?)と問われても困るのですが、まあ飽きたらまた集約するかもしれませんし、切り捨てられるかもしれません。

今日の話題はブログのタイトルですが、今日の記事のタイトルにもしてみました。ラテン語の参考書から引用した一節。ちなみにその本は積んどくなのですが、それはまあ措くとして、えー、恋人に贈る指輪には是非この一節を彫りたいですね。

まあ、かつては、次の一節を彫りたいとも思っていましたが、いまは、どうかな、やはり使わないでしょうね……。使うという人は別に止めませんが。新約聖書の一節、ラテン語である必要はないのですが、ラテン語ヴルガータだとこうなっています。

caritas numquam excidit.
英語だとLove is never ends 1コリ13の8です。愛は尽きない、みたいな感じでしょうか。


さて、で、その前掲の文句(OMNIS AMANS AMENS)はいったいどんな意味なんだ、というのは──書かない?でいきましょうか。
このブログ、そういう話題(どういう話題なのか?)でいくのかもしれません。

2008/05/27

ずっと

ずっと放置してあったここを使おうかと思って、ログインIDとパスが分からなくてあたふた右往左往。これを開設した当時は独立したアカウントだったんだけれど、その後Googleのアカウントに統一されて、Googleでログインすれば入れるようになった。んだけれど、前のアカウントをGoogleのアカウントに統合する手続きがしてなかったらしい。どこから入ればいいのだー。

というわけで、ごそごそやっていたら、なんとか統合の処理画面が出てきました。さらにごにょごにょやって、やっとアクセスできました。

アドレスを見ておやっと思う人はかなりの朝見通?です。はてな開設時のタイトルですよね。そう。実は、Blogger(ここ)でやろうかなっと思って、MacのIEで表示が乱れるという理由などで「はてな」にしたのです。その後使わずに放置されていたのですが……

さてー何に使いましょうかー。