2009/02/27

テンプレート変更

テンプレート配布サイトのテンプレートを使っていたが、テンプレート配布サイトのテンプレートが使っている画像を置いているサービスが止まってしまって、画像が表示されなくなってしまった。
というわけで、純正のテンプレートに変更。
まあ、画像なども自サイト内に置けば、そのようなトラブルは無くなるのだろうけれど。

等比級数的

幾何級数的に〜と誰かが言っていた。
幾何級数とは何か。
幾何級数というのは、すなわち等比級数のことであるらしい。
等比級数、というか、等比数列の和はrのn乗の形をしているわけで、まあ、ざっくり言えば、指数関数的と同じ──というか指数関数そのものである。
指数関数的の反対は対数関数的だろうか。
対数関数的と言ってもたぶん通じない。
算術級数的が、反対語らしい。算術級数とはつまり等差級数なのだ。
等差級数だったら、一次関数的だから、対数関数よりは増加率が多いのではないかと思うが、直線的であることに意味があるのかもしれない。
ねずみ算式に、とか雪だるま式という表現もあるが、ねずみ算は等比数列であるので、幾何級数的と同じである。ユキダルマシキを数式に置くことができれば、比較ができて面白そうだ。

単位時間当たりユキダマの直径が一定量増加するなら、その体積は3次関数である。ユキダマの転がる速度が問題になる。速度一定なら、接地部分の線速度一定ならば、回転速度はおそくなっていくわけで、雪だるま式というイメージに合わない。雪だるまなんて最近作ったことがないので何とも言えないが、雪だるまはそれほど急激に成長しないということかもしれない。

一番の謎は、幾何級数ってなんで幾何なんだろうかということである。

2009/02/24

ソフィーの世界を持っている

うちのアパートの古紙置き場にペーパーバック版の「ソフィーの世界(上)(下)」が捨てられていた。思わず拾っていこうかしらと思ったけれど、よく考えたらハードカバー版を(実家から今の住まいへ)持ってきていたのだった。
これを読んだのは、とくに哲学に興味はなかった頃なのだ。

今読んだら、どう思うだろうか。
少しはツッコミを入れられるかもしれない。
でも、ぶ厚いのだ。
再読はしたいのだけれど……

2009/02/19

弱いものにつく

内田樹氏が、村上春樹氏のエルサレムでのスピーチについて書いている。

壁と卵(内田樹の研究室)

文学は論理では無いということか。
文学という部分は、「人間」と入れ替えても同じであろうか。

論理で何事も決めるのであれば、判断は簡単である。コンピュータ(機械)でも判断できる。
ハイデガーがナチスについたり、アインシュタインが核開発の必要性を提言していたり。
良かれと思って、である。後悔することになるとしても。

さっぱり分からない。わからないが、文学が存在する意味がそれなのかもしれない。

2009/02/18

少し寂しいくらいが

さだまさしの曲をよく聞いていて、彼のラジオ番組を聴いていた。本も読んでいた。
いわゆるファンだったのである。
それによって得られたことはいろいろあるが、得をしたことをひとつ挙げるとすれば、佐田玲子のアルバムを何枚か持っていること。
反対に残念なことは、白鳥座のアルバムを持っていないことである。CD化されていたはずだが、気がついて買おうとしたときには、入手不可能になっていた。
再版されないのは、解散しているためか、版権の問題があるのかもしれない。

で、表題のフレーズは、佐田玲子の「川」(アルバム「君を信じて」に収録)である。


『GOLDEN☆BEST/佐田玲子』というベスト盤は2004年発売で新品の入手も可能のようだ。
公式サイトもあるのだが、驚いたことに、たくさんのラジオを番組をやっていること。ラジオを聴くということはもうない(ラジオは持っているが)だろうけれど。
付言しておくと、ラジオ番組がまだあるということに驚いた。ラジオがあるのだから、番組があるのは当たり前。驚くべきは、そんなことを思う自分のことである。
毎週の土曜。東京の文化放送を(愛知で)聴いていたのははるか昔ということか。

2009/02/17

アンエンオン

仏語のアン・エン・オン
「ん」ではなくて(発音記号は母音の上に〜)の鼻母音なのであるが……
仏語というのは、英語と違って、スペルによって発音は規則的に決まるので、そういう面では楽ちんである。
an en というのは、アン[a〜]なのだが、ほとんどオンに聞こえる。
in とかは、エン[ε〜]なのだが、アンに聞こえる。
on は オンである。(分かりやすい)

イン。とか、エンというのは、無いということになる。仏語をやっていると仏語しか読まないので気がつかないが、仏語に出てこない「音」というのがある。すぐ気がつくのはハ行が言えないこと。hは読まないのだから。
チも発音できない。chはシになるので、駄目だ。

そのくせ、母音が12個(鼻母音を除いて)もあるのであるから、やっていられない。

2009/02/13

脱ブログ考

ブログを止めて、単純なWebページに回帰しようかと考え中である。
何故か。

  1. みんながブログ(日記形式)なので、違うことをしようという考え。
  2. 時事ネタなどがないので、日付順に並ぶことの意味がない。


というのは、表向きである。フロー型よりスタック型の方が、更新が減らせるのではないか。少ない更新でも、コンテンツが溜まっていくので、見た目で内容が多いように見えるのではないか、というよこしまな考えによっている──のかもしれない。

それを言うなら、ブログを止めれば良いのである。Webサイトだって、やめても良いではないか。
やめられないと言うならば、そこには理由があるはずである。

2009/02/12

名詞の性

小学校で英語をやるようで。全くお上も馬鹿な奴ばかりであると思う。
むしろ、日本語をやれと思うし、あるいは、他の言語だってやっても良いんじゃないかと思う。韓国語とか、ポルトガル語とかは身近じゃないだろうか。あるいは中国語。アラビア語も良いし、ヒンディ語だって美しそうだ。

という題目からそれた話は措いて置いて、性の話。名詞の性。
英語にはないけれど、たとえば、フランス語には名詞に男性名詞と女性名詞がある。
全く規則性が無くて、覚えるしかないのだが、覚えるしかないということなので、しかたがない。
実は、名詞の性の違いを知らずに覚えてしまっていることがある。
カフェオレというのがあるが、カフェ・オ・レ のレが牛乳のこと──laitである。
まえについているのが、オなのだが、これが、auで── à leの縮約形なのでわかりにくいが、このleが男性名詞に付く定冠詞である。だから、牛乳は男性名詞なのである。
アラカルトというのも聞いたことがある。
à la carte と書くわけで、carteが名詞でメニューのことなのだが、この「ラ」laが女性名詞に付く定冠詞なのである。

カフェ アラ・レとは誰も言わない。覚えてしまっているのである。

ルモンドという新聞がある。これも、le monde で、mondeという名詞「世界」なのだが、le が付くので、男性名詞なのである。
ラモンドじゃないのだ。

でも、あんまり出てこない名詞は、どうやって覚えるんだろう……フランス人に聞きたい。本当に覚えているのか?

2009/02/09

1985

愛を探していた。愛そうとしていた、ということかもしれない。しかし、探しているところにはそんなものはなかった。たとえば、優しいという動詞は、いくら製錬しても愛にはならない。
求められていたのは、愛ではない。そして、おそらく優しさでもない。

愛というものが何か。
それが分からずに探しているのだから、無理と言うよりも無謀である。
落ち着いて考えれば、分かることである。だが、それが分からなかったのは、そもそも、愛を探しているわけではなかった、ということではないか。

・・・続

2009/02/07

成さず

カントに言わせれば、成すべきであるがゆえに成しうる。ということになるであろう。

だいたいのところは、成さなくてもよいことを成しているのである。成すべきではないものを成していないだけは救われるのかもしれない。

何も成さないという選択が常にある。

時に、何かを成すよりも価値がある場合がある。

2009/02/06

高々

数学で出てくる高々(たかだか)という響きが好きだとふと思った。

無いだろうと思って、Wikipediaで調べてみたら予想に反して載っていた

そういえば、先日本屋で距離空間の本がふと目にとまったので、ちょっと立ち読みしてみた。とりあえず、距離空間をやっておけば、ちょっと威張れる(いや嘘だ)かもしれない。
──とか思って買いそうになったが、やめた。
距離空間と言えば、位相空間の部分集合という認識でよいのだと思われるが、位相のなんたら(忘れている)という文庫を買っていたはずだが、どうなったのだろうか。

2009/02/02

日本がどんどん危機に


結局、日本人は、もはや支払いができない──つまり職を失った人びとだが、〔失業〕保険(mutuelles)に頼った。今週、麻生総理は国会議員の前で「廃れて古くなった社会の方法」と強く批判した。危機が重大であると公然として認めた。彼は、1991年に一掃した、二つをできるだけ比較して考えるしかない。そのふたつ、すなわち、明治のとき、日本は近代化のために孤立から外へ出たこと、第二次大戦がどこで、そして負け、完全に復興をしたと……
Le Japon s'enfoncede plus en plus dans la crise  (Le Figaro)

LE FIGARO紙のブログの終わり部分を抜粋で。訳は私訳。

2009/02/01

仏作文床屋へ行く

「明日床屋へ行く」というのを仏作文してみた。
床屋は chez le coiffure または salon de coiffure 
chezというのは「の家」という前置詞だから、まあ日本語で言う「ん家」みたいな感じか。
明日、はdemain
まあこれは決まり。
行く、という動詞はaller

日本語では出てこないが、一人称の主語「私は」のJe が必要になる。
これだけの部品があれば作文できる。

動詞の時制が問題になるのだが、まず単純未来にしてみる。 allerの一人称の単純未来はirai allerというのはよく出てくる動詞なので、無茶苦茶な不規則動詞なのである。
J'irai chez le coiffeur demain. ジレ シェル クワフル ドゥマン

je が j'になっているのは、母音の省略エリズィオンである。アンシェヌマンとリエゾンというのもある。いつもどれがどれだか分からなくなる。
さあ、出来た。と思ったが、どうも気に入らない。
aller+不定詞 という、近い未来の用法がある。英語もbe going toというのがある気がする。

Je vais aller chez le coiffeur demain. ジュベザレ シェル クワフル ドゥマン

vaisは「ベ」でsは発音されないが、続く語が母音のときはsが発音されるようになる。これがリエゾン。
未来形よりも、こっちの方がよい気がする。床屋に行くのはほとんど決まっているからである。
作文は完成した。通じないことはないと思われるが、床屋というのが3語になっているのが少し気になる。

Je vais aller au coiffeur demain.
ググってみると、au でも良さそう。chezに代えて場所を表す前置詞 à を使う。à leは縮約形 au になる。 これでも通じるのだろう。

Je vais au coiffeur demain.
仏語は現在と近未来はあんまり区別されない。demainと付いているので、このように現在の時制にしても問題なさそうである。

VIDOCQ

映画『ヴィドック』
観た。(一週間前だが)
顔が鏡(の仮面)になった殺人者(錬金術師)を追う話。
映像がSFXなのだが、CG合成なのである。どうなのだろう。
それに比べると、TAXiの方は、曲芸乗り?のドライバーが実際に運転していたりする。まあ、あれを全部CGにしたら面白くないだろう。

で、ヴィドック。
このパターンの映画は2回目観るとオチが分かっているので面白くない──ということはなくて、何度も観られるというお得な人間が観ているのであるなあ、と思う。
映像全部記憶してしまうような人は──、まあ、そういう人はどんな映画も2回見ない、か。